インド西部、ワーグラー川の渓谷の岩壁を穿った30ほどの仏教石窟。前2世紀と5世紀…
インド中部マディヤ・プラデーシュ州の丘に残る仏教遺跡群。前3世紀にアショーカ王が創建した大塔を中心に、12世紀頃までの仏塔・寺院・僧院が集まる。浮彫で埋め尽くされた大塔の4基のトーラナは、初期仏教美術の代表作とされる。
§1 — 概要サーンチー(Sanchi)の仏教建造物群は、インド中部マディヤ・プラデーシュ州、州都ボーパールの北東約46キロメートルにある丘の上に残る仏教遺跡である。紀元前3世紀から紀元12世紀頃までに築かれた大小50を超える仏塔・寺院・僧院が、南北約400メートルの頂部に集まり、インドで最もよく保存された初期仏教の遺構とされる。中心の大塔(第1ストゥーパ)は、インドに現存する最古級の石造建造物の一つである。1989年にユネスコ世界遺産に登録された。
釈迦自身がこの地を訪れた記録はない。ここに大規模な聖域が築かれたのは、マウリヤ朝のアショーカ王とのゆかりによると考えられており、スリランカの年代記は、王子時代のアショーカが近くの町ヴィディシャーで商人の娘デーヴィーを妻に迎えたと伝える。紀元前3世紀、アショーカは仏舎利を納める煉瓦造の半球形の塚を築かせ、そばに磨き上げた砂岩の石柱を立てた。この最初の塔の直径は、現在の半分ほどであった。
紀元前2世紀、シュンガ朝の時代に塔は石で覆われて直径がほぼ倍に拡張され、周囲には高い基壇と階段、地上の巡回路を囲む石の欄楯が整えられた。同じ頃に第2・第3ストゥーパも築かれ、第3ストゥーパには釈迦の高弟である舎利弗と目犍連の舎利が納められたと伝えられる。続く紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて、サータヴァーハナ朝のもとで大塔の四方にトーラナが建てられた。南門の銘文は、これがサータカルニ王に仕える工匠の長の寄進であることを記し、別の銘文は近郊ヴィディシャーの象牙細工師の組合が彫刻を担ったことを伝える。
グプタ朝期にも造営は続き、5世紀前半の第17寺院は、インドで最も早い時期の独立した石造寺院の一つに数えられる。仏教の衰退とともに聖域は12世紀頃までに使われなくなり、森に埋もれた。1818年にイギリスの軍人が記録して以降、発掘と称する破壊も受けたが、1912年から1919年にかけて考古学者ジョン・マーシャルの指揮で修復され、現在の姿に整えられた。
大塔の本体は、アンダと呼ばれる半球形の塚で、直径は約37メートル、高さは約16.5メートルある。頂部は平らに切られ、方形の欄で囲んだハルミカーの中央に竿柱が立ち、三重の石の傘を戴く。塚の周囲には巡礼者が時計回りに巡る通路が二つあり、一つは南側の二重の階段で上る高い基壇上に、もう一つは地上にあって、柱と三本の横木と笠木からなる欄楯に囲まれる。欄楯は石造でありながら、木の柵の組み方をそのまま写している。
地上の欄楯の四方に開く高さ約10メートルのトーラナは、2本の方柱に両端の反った3本の梁を渡した構成で、柱と梁の表裏が釈迦の生涯や前世の物語(本生図)の浮彫で埋め尽くされる。釈迦その人の姿は描かれず、菩提樹・法輪・台座・足跡などで存在が示される。梁を支える柱頭の彫刻は門ごとに異なり、南門は獅子、北門と東門は象、西門はヤクシャ(夜叉)の像で、様式の変化から南門が最も古いと考えられている。
サーンチーには、アショーカ王の時代の最初期から、仏教がインドで衰退するまでの1,400年以上にわたる仏教建築の展開が一か所に重なっている。トーラナの浮彫は、城壁や楼門を備えた古代インドの都市や人々の暮らしも細かく描いており、当時の都市景観を復元する手がかりとして重視される。アショーカ王柱の獅子柱頭は近くの考古学博物館に収められ、大塔の姿はインドの200ルピー紙幣の図柄にも用いられている。