チェコ北部、エルベ川とオフジェ川の合流点近くに築かれた稜堡式の要塞都市。1780〜1790年にハプスブルク君主国が建設し、碁盤目の町を囲む大要塞と小要塞からなる。第二次世界大戦中はナチスのゲットーとゲシュタポの監獄が置かれた。
§1 — 概要概要
テレジーン(Terezín、ドイツ語名テレージエンシュタット Theresienstadt)は、チェコ北部ウースチー州、オフジェ川がエルベ川に注ぐ合流点の近くにある要塞都市である。18世紀末にハプスブルク君主国がプロイセンに備えて築いた要塞で、名は皇帝ヨーゼフ2世の母マリア・テレジアにちなむ。稜堡式城郭の完成期の手法による大規模な要塞であり、塁壁、水利施設、地下坑道がまとまって残る。一方で、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがゲットーと監獄を置いた場所として、ホロコーストの記憶と切り離せない土地でもある。
歴史
七年戦争とバイエルン継承戦争を経て、ハプスブルク家はボヘミアの北の守りを固める必要に迫られていた。1780年1月、ザクセン方面から侵入するプロイセン軍に対してオフジェ川とエルベ川の渡河点を押さえる要塞の建設が命じられ、同年10月10日にヨーゼフ2世が定礎した。東ボヘミアのヨゼフォフ要塞も同時に着工している。工事は工兵総監カール・クレメンス・フォン・ペレグリーニのもとで進められたが、チェコの研究では、設計はフランツ・ラウアーやカール・ニクラス・フォン・シュタインメッツら複数の工兵将校による共同作業とされ、フランスの技師コルモンテーニュの築城論の影響が指摘されている。
最盛期には兵士や職人など1万人を超える人々が現場で働き、膨大な数の煉瓦が焼かれた。1782年には要塞内の町が自由王国都市の地位を得ている。要塞は1790年6月に完成し、平時は約5,600人、戦時には約1万1,000人の兵を収容できた。ただし一度も攻囲されることはなく、19世紀には小要塞が監獄としても使われた。1914年にサラエヴォでオーストリアの皇位継承者を暗殺したガヴリロ・プリンツィプは、1918年にここで獄死している。要塞としての役目は1888年に解かれた。
1938年のミュンヘン協定と翌年のチェコ占領を経て、テレジーンはナチス・ドイツの支配下に入った。1940年、小要塞にプラハのゲシュタポの警察監獄が置かれ、抵抗運動の関係者をはじめ多くの政治犯が収容された。1941年11月には大要塞の町全体がユダヤ人のゲットーに転用される。ここにはボヘミア・モラヴィアのほか、ドイツ、オーストリア、オランダ、デンマークなどから14万人を超えるユダヤ人が送られ、過密と飢え、病気によって約3万3,000人が命を落とした。8万8,000人以上がアウシュヴィッツなどの絶滅収容所へ移送されている。ナチスは国際赤十字の視察に際してこのゲットーを整った居住地に見せかけ、宣伝にも利用した。1945年5月の解放後、小要塞は1948年までドイツ系住民の収容所として使われた。
建築的特徴
要塞の中心は、オフジェ川の左岸に築かれた大要塞である。8基の稜堡を幕壁でつなぎ、その外側に半月堡などの外塁と覆道を重ねて、平面は大きな星形をなす。内部の町は、中央の広場を核に直交する街路で区切られた碁盤目状の計画都市で、兵舎、武器庫、病院、倉庫が整然と並ぶ。広場に面して立つ守備隊教会(キリスト復活教会、1805〜1810年)は帝政様式の建物で、塁壁の外から塔が見える唯一の建物である。

川の東には、大要塞と同じ構成を小さくまとめた小要塞が置かれ、渡河点とエルベ川の交通を押さえた。両者のあいだ、新旧二筋のオフジェ川に挟まれた区域も外塁で囲まれ、補給や部隊の駐屯に使われた。防御の要となったのは水である。オフジェ川の堰と地下の水門を操作して周囲の窪地と堀を水没させる浸水防御が組み込まれ、水に頼れない方面には、敵の坑道を迎え撃つ対抗坑道の網が地下に張り巡らされた。

意義・現在
テレジーンは、18世紀後半の稜堡式要塞が、町と水利施設、地下坑道を含めてほぼ全体で残る稀な例であり、2001年からチェコの世界遺産暫定リストに記載されている。町は都市歴史保存地区に指定され、小要塞と墓地は国家文化記念物となっている。一度も攻められなかったことから無用の投資と評されることもあるが、強固な要塞の存在そのものが、北からプラハを目指す敵への抑止として働いたとする見方もある。
軍の駐屯は1996年まで続いた。2002年にはワールド・モニュメント・ウォッチに選ばれ、同年8月の洪水でも大きな被害を受けている。現在、小要塞やゲットー博物館などはテレジーン記念館として公開され、ホロコーストと政治的迫害の記憶を伝えている。空いた兵舎や塁壁の保存と活用は、町の大きな課題として続いている。