テムズ川北岸に立つイングランド王の城塞。ノルマン征服直後の1066年末に起点を置き、中核のホワイト・タワーは1078年頃にウィリアム1世が着工した。以後900年にわたり王宮・武器庫・造幣所・牢獄として使われ、現在は王冠宝器を収める。
§1 — 概要概要
ロンドン塔は、テムズ川北岸に立つ城塞である。正式名称を「国王陛下の宮殿にして要塞たるロンドン塔」といい、単独の塔ではなく、堀と二重の城壁が囲む内側に多数の建物が建ち並ぶ複合体を指す。シティ・オブ・ロンドンの東端に接するタワーハムレッツ区にあり、テムズ川の水運と旧市街の双方を見下ろす位置が選ばれている。
歴史
起点は1066年末、ノルマン征服の直後である。当初の防御施設は木造だったが、11世紀の末までに石造へ置き換えられた。城の名の由来となるホワイト・タワーの着工は1078年頃とされ、正確な年は定かでない。ウィリアム1世はロチェスター司教ガンドルフにその造営を委ねたが、完成は王の没した1087年より後にずれ込んだ可能性がある。
拡張はリチャード1世(在位1189–1199)の内郭、ヘンリー3世、そしてエドワード1世の外郭と続いた。エドワード1世は1275年から1285年にかけて21,000ポンドを投じている。これはヘンリー3世の治世全体に費やされた額の倍を超える。以後、全体の配置は今日までほとんど変わっていない。
牢獄としての使用が頂点に達したのは16–17世紀で、即位前のエリザベス1世やウォルター・ローリーらが収監された。「塔送り」という言い回しはここから生まれている。ただし拷問と処刑の場という評判は、16世紀の宗教的な宣伝と19世紀の読み物が広めたものである。両大戦以前に塔の内部で処刑された者は7人にすぎず、処刑の多くは北側のタワー・ヒルで行われた。そちらは400年間に112人を数える。19世紀後半に王立造幣局などが移転して建物が空くと、アンソニー・サルヴィンとジョン・テイラーが「中世らしい」姿への改修に着手した。中世的でないと判断された部分は容赦なく取り払われ、後世の内装や重要な建物までが失われている。
建築的特徴
ホワイト・タワーは天守(ドンジョン)であり、基部で36×32m、南側の胸壁まで27mの高さをもつ。当初は地階と地上2層の構成で、入口はノルマンの天守の慣例どおり地上より高い南面に開き、木の階段で上った。階段は攻撃を受けた際に取り外せる。主要な石材はケント産のラグストーンで、外装の細部にはノルマンディーのカーン産の石が輸入された。その多くは17–18世紀にポートランド石へ差し替えられている。切石積みにはレイゲート石も用いられた。壁の厚みには便所が組み込まれ、四つの暖炉が置かれるなど、砦であると同時に領主の住居として設計されている。
城は三重の郭からなる。最も内側にホワイト・タワーが立ち、それを北・東・西から内郭が囲み、さらに外郭が全体を包む。中心の天守を同心に囲い込むこの構成は、同心円式城郭の到達点の一つである。
意義・現在
1988年、世界遺産に登録された。1990年以降は独立の慈善団体ヒストリック・ロイヤル・パレスィズが管理し、政府や王室からの資金を受けずに運営されている。イングランドの王冠宝器を収める場所として知られ、2025年には280万人を超える来訪者を集めた。近年は周囲に高層建築が建ち並び、遺産としての環境をどう保つかが課題となっている。