建築様式史 — CHAPTER 15
地域と表現
Art Deco, Organic, Nordic前章で宣言されたモダニズムは、白い箱と機能主義を掲げ、世界共通の「国際様式」として広がった。だが、その普遍性に、すべての建築家が従ったわけではない。装飾を捨てきれなかった者、自然と一体になろうとした者、人間の感覚に寄り添おうとした者——本章では、モダニズムの単一の神話の外側で、地域や素材、感性から多声的に応答した、もう一つの近代をたどる。
アール・デコ
まず、装飾を捨てなかった近代がある。アール・デコである。1925年にパリで開かれた装飾美術博覧会にちなんで名づけられたこの様式は、直線とジグザグ、放射状の幾何学模様、流線形、そしてぜいたくな素材を用いて、機械時代の華やぎと豊かさを表した。装飾を罪とまで断じたモダニズムとは対照的に、アール・デコは近代と装飾を和解させ、世界中で大流行する。なお、これは前章のモダニズムに続いて現れた様式ではなく、同じ1920〜30年代を並走した、もう一つの近代である。その華が最もきらめいたのが、ニューヨークの摩天楼であった。ウィリアム・ヴァン・アレンが設計したクライスラー・ビルは、自動車のホイールキャップやボンネットの飾りをモチーフにした装飾をまとい、ステンレス鋼を放射状に重ねた尖塔を頂く。機械の時代の夢を、これほど優美に造形した建物はない。近くのエンパイア・ステート・ビルやロックフェラー・センターも同じ時代の産物で、上へ向かって段状に後退する摩天楼の輪郭は、ニューヨークの空を一変させた。その様式は大西洋を越え、ロンドンやムンバイ、上海の街並みにも華やかな足跡を残している。アール・デコは、客船や劇場、映画館、宝飾にまで広がり、近代の大衆的な憧れを彩った。
有機的建築
モダニズムの抽象性に、別の方向から応えたのが、アメリカのフランク・ロイド・ライトである。彼は早くから、低く水平に伸びる屋根をもつ「プレーリー様式」の住宅で、大地に根ざした建築を追求していた。やがてその思想は、建物を土地・自然・用途と分かちがたい生きた有機体としてとらえる「有機的建築」へと深まる。彼は壁で部屋を閉じる「箱」を壊し、空間を水平に流れさせ、内と外を連続させようとした。その頂点が、ペンシルベニアの森に建てた落水荘である。ライトは、滝が「見える」家ではなく、滝の「上に建つ」家を提案した。鉄筋コンクリートの水平なテラスが、滝の上へ大きくカンチレバーで張り出し、床は滝そのものの上に重なって、水音が絶えず室内に響く。後年には、らせん状のニューヨークのグッゲンハイム美術館で、流れる空間の理想をさらに推し進めた。建物が風景に対立するのではなく、その一部となる——国際様式が世界中で同じ箱を建てようとしたのとは、正反対の理想がここにあった。
北欧モダン
ヨーロッパの北の端、北欧諸国でも、独自の近代が育っていた。その代表が、フィンランドのアルヴァ・アアルトである。アアルトは、モダニズムの機能主義を受け入れながらも、その冷たい抽象性に、人間味を取り戻そうとした。彼が重んじたのは、木やレンガといった自然の素材、やわらかな曲線、北国の柔らかな光、そして人間工学への配慮である。結核療養所パイミオ・サナトリウムでは、療養する患者の視線や光、音にまで心を配り、機能主義を人間に寄り添うものへと和らげた。彼の関心は建築にとどまらず、患者が使う椅子や照明、把手の一つひとつにまで及んだ。曲げ木の家具や波打つガラス器は、いまも北欧デザインの古典である。森の中に建てたマイレア邸では、白い壁のモダニズムに、森の木立のような無数の木の柱を組み合わせ、自然と一体の温かな住まいを実現する。アアルトの北欧モダンは、近代建築が必ずしも非人間的でなくてよいことを、静かに証明してみせた。
日本の近代
近代の多声は、西洋の外にも広がった。とりわけ日本では、西洋から学んだモダニズムと、木と空間をめぐる固有の伝統とを、いかに総合するかが問われる。戦後、その課題に正面から取り組んだのが丹下健三である。彼は、コンクリートによる力強い近代建築に、日本建築の構造や比例の感覚を重ね合わせ、世界に通用する日本の近代をかたちにしていく。原爆の惨禍からの復興を担った広島平和記念公園は、その早い達成であった。同じころ、ブラジルのオスカー・ニーマイヤーが曲線の躍動する新首都ブラジリアを構想するなど、近代建築は世界各地で、その土地ならではの表情を獲得しつつあった。こうした「伝統と近代の総合」という主題は、やがて、成長し変化する都市を構想する次世代の運動——メタボリズムへと展開する。アール・デコ、有機的建築、北欧モダン、そして日本の近代。これらはいずれも、国際様式の単一の正解に対する、地域と感性からの豊かな応答であった。だが第二次大戦を経て、近代の楽観そのものが揺らぎ始める。次章では、粗いコンクリートとシステム、そして過去の引用が噴き出す、戦後の懐疑へと向かう。