スロヴァキアの首都ブラチスラヴァ、ドナウ川を見下ろす岩丘に建つ城。四隅に塔を立てた方形の宮殿は15世紀ジギスムントの造営を起点に改築を重ね、1811年の大火で廃墟となったのち、1956〜68年にマリア・テレジア期の姿で再建された。
§1 — 概要概要
ブラチスラヴァ城(Bratislavský hrad / Bratislava Castle)は、小カルパチア山脈の南西端がドナウ川に落ち込む岩丘の頂に建つ。白い壁の四翼が中庭を囲み、四隅に塔を立てた方形の宮殿は、川沿いのどこからでも目に入り、市街の眺めを決定づけている。
宮殿の平面は15世紀前半のゴシックの造営に始まり、ルネサンス、初期バロック、マリア・テレジア期の改築で形を整えた。1811年の大火で廃墟となり、140年あまりを経て再建されたのが今日の姿で、中世の石積み、18世紀の外観、社会主義期の再建が一つの建物に重なっている。
歴史
岩丘には銅石器時代から人が住んだ。9世紀の大モラヴィア期には木と土の防壁をめぐらせた拠点が築かれ、石造の宮殿と、スロヴァキア領内で最大の大モラヴィア期のバシリカが建った。907年の年代記に「ブレザラウスプルク」の名で現れるのが、文献上の初出とされる。
ハンガリー王国の成立後、城は西の国境を守る州城となった。1241〜42年のモンゴル来襲を退けたのち、1245年に大きな塔が建てられ、石造の城壁がめぐらされた。このとき築かれた隅の塔の基礎の上に、のちに王冠の塔が立ち上がる。
1420年代、ハンガリー王ジギスムント(のちの神聖ローマ皇帝)はブラチスラヴァを統治の拠点とする構想を抱き、まず防壁を石造に改め、1431年ごろから宮殿の建設に着手した。工事はバイエルンの工匠の技法に拠ったコンラート・フォン・エルリンゲンが率い、費用には諸都市への特別税が充てられた。古い住居塔は取り壊され、中庭を囲む方形の宮殿が計画されたが、1437年にジギスムントが没して工事は中断した。この時期の造営で完全に残るのは東側の入口塔、ジギスムント門だけである。
1526年のモハーチの戦いでハンガリー中央部がオスマン帝国の手に落ちると、ブラチスラヴァ(当時のプレスブルク)はハプスブルク家が治める王領ハンガリーの首都となり、城は王国第一の城となった。フェルディナント1世は1552年から宮廷建築家ピエトロ・フェラボスコに改築を命じ、1562年までに内部と外観をルネサンス風に改めた。王冠の塔には、この時期から18世紀後半までハンガリーの聖冠をはじめとする戴冠宝器が納められた。
17世紀にはウィーンの宮廷建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・カルローネの設計で初期バロックの改築が行われ、1635年に工事が本格化して1640年代末に完了した。資金を担ったのは城代パールフィ・パールである。北翼と西翼が建て直されて3階が加わり、新たに二つの塔が建てられて四隅の塔がそろった。今日に続く外形の大枠はこのとき定まった。1660年代以降はオスマン帝国の脅威に備え、軍事技師ヨーゼフ・プリアミの計画で南西側に稜堡が築かれた。
マリア・テレジアはハンガリー貴族にブラチスラヴァにも居所をもつと約束し、1760年代に城を近代的な王宮へ改めた。初期にはパカッシーやマルティネッリが関わり、主たる設計は宮廷財務局の建築家フランツ・アントン・ヒレブラントが担った。内部はロココの室内に改められ、正面には衛兵所と二つの凱旋門で整えた前庭が設けられた。1767〜70年には総督アルベルト・フォン・ザクセン=テシェンのために東側にテレジアヌム宮が増築され、その美術収集はのちにウィーンのアルベルティーナ美術館の基礎となった。
1783年に王国の中央官庁がブダへ移ると、城は神学校を経て1802年から兵営となり、1811年5月28日、兵士の不始末から出た火で宮殿は焼け落ちた。廃墟は第二次世界大戦後まで軍が使い、1930〜40年代には取り壊して官庁街を建てる案も出た。
1953年、スロヴァキア工科大学の建築史家アルフレート・ピッフルが調査に着手し、石積みが健全であることを確かめて全面再建を提案した。最後の改築である18世紀の姿を基準とする方針が決まり、1956年からピッフルとドゥシャン・マルティンチェクらの計画で工事が始まった。ピッフルは翌1957年に捏造された容疑で投獄されて現場を去ったが、工事は続けられ、宮殿の再建は1968年に完了した。2008年からは大規模な改修が行われ、2010年に前庭が整備されたほか、バロック様式の庭園も整えられた。
建築的特徴
宮殿はほぼ正方形の平面で、四つの翼が中庭を囲み、四隅に塔が立つ。最も大きいのは南西隅の王冠の塔で、13世紀の隅塔の基礎の上に15世紀前半に築かれた。外観は18世紀の改築にならい、白い漆喰の壁面に窓が規則正しく並び、赤い屋根がかかる。装飾を抑えた平明な立面である。
外観は新しく見えるが、壁体には中世の部分が残る。西側の外壁は厚さ7メートルに達し、内部に射手のための小室をもつ。外壁と内部の廊下にはゴシックやルネサンスの部材が見え、東側には16世紀の入口を塞いだ跡も残る。内部では、中庭に面したアーケードの廊下から幅の広いバロック様式の大階段が上階へ導く。再建は18世紀の構成を基本としつつ、発掘や調査で見つかった古い要素を見せ、必要な箇所には現代の素材を用いるという方針で行われた。

ジギスムント門は、城の中世を最もよく伝える部分である。扁平な弓形アーチの門口、尖塔状の小装飾(ピナクル)、通路天井のリブ・ヴォールトと要石が残り、ゴシック末期の意匠を示す。
宮殿の正面には18世紀後半に整えられたクール・ドヌールが開け、その下の段には17世紀の稜堡に囲まれたレオポルトの中庭がある。西側のウィーン門は1712年、カール6世の戴冠に合わせて建てられ、以後の正門となった。宮殿の東側の地面には、大モラヴィア期のバシリカや11世紀の聖救世主教会の平面が表示され、その真下に遺構が保存されている。
意義・現在
ブラチスラヴァ城は、ハンガリー王国の戴冠都市としての過去と、スロヴァキア国家の成立とを一つの場所で結ぶ建物である。1968年10月28日にはチェコスロヴァキアを連邦制に改める法律が城内で署名され、1992年9月3日には独立スロヴァキアの憲法が騎士の間で署名された。1961年には国の文化財に指定されている。
現在はスロヴァキア国立博物館の歴史博物館が置かれ、宝物室やスロヴァキア史の常設展を公開するほか、一部の部屋は国民議会などの公式行事に使われる。今日の宮殿は大部分が20世紀の再建で、廃墟をどの時代の姿に戻すかという戦後の判断が、そのまま建物の性格を決めている。