EST. 2026 — Editorial Archive of Notable Architecture
コンスタンティノープル競馬場
© Maurice Flesier / CC BY-SA 4.0
FIG. 01 — Q387548
様式 · ローマ建築 時代 · 古代 類型 · 公共・官庁 ★ 世界遺産「イスタンブール歴史地域」の構成資産(1985年登録)

コンスタンティノープル競馬場 Hippodrome of Constantinople

Ἱππόδρομος τῆς Κωνσταντινουπόλεως

東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあった戦車競走の競技場。203年にセプティミウス・セウェルス帝が築き、コンスタンティヌス1世が拡張した。跡地はイスタンブールのスルタンアフメト広場で、オベリスクなどが残る。

FIG. 02 — Location41.0064° N 28.9756° E
トルコ イスタンブール県 イスタンブール
§1 — 概要

概要

コンスタンティノープル競馬場(ヒッポドローム、Hippodrome of Constantinople / Ἱππόδρομος τῆς Κωνσταντινουπόλεως)は、東ローマ帝国の首都に置かれた戦車競走のための競技場である。名はギリシア語の「馬(ヒッポス)」と「走路(ドロモス)」に由来するが、形式は走路の中央に分離帯をもつローマのキルクスで、ローマの大競技場キルクス・マクシムスと同じく皇帝の宮殿に隣接して築かれた。建物の大半は失われたが、跡地はイスタンブール旧市街のスルタンアフメト広場として残り、走路の輪郭と、その中央に立っていた記念碑が往時の姿を伝えている。

歴史

最初の競技場は、この町がまだビュザンティオンと呼ばれていた時代にさかのぼる。内戦で破壊された町をセプティミウス・セウェルス帝が再建した際、市壁の拡張とともに戦車競走の競技場を設けたもので、203年がその年とされる。324年に東方の覇権を握ったコンスタンティヌス1世はこの町を新たな都に選び、競技場を大きく拡張して、330年の新都の奉献に備えた。拡張後の規模は長さ400メートル余り、幅約120メートルと推定され、収容人数は数万人から10万人まで見積もりに幅がある。

東側の観覧席の中ほどには皇帝の観覧席カティスマが張り出し、隣接する大宮殿と皇帝専用の通路で結ばれていた。競走は青・緑・赤・白の四つの党派に支えられ、やがて青と緑の二派に集約される。党派の対立は政治や宗教の争いと結びつき、532年のニカの乱では、競技場に集まった反乱の群衆約3万人が鎮圧の軍に殺された。この乱で焼けた大聖堂の跡に再建されたのが、現在のアヤソフィアである。

競走は11世紀にもなお盛んであったが、記録に残る最後の競走は1200年である。1204年に第4回十字軍が町を略奪すると、競技場を飾った青銅像の多くが失われ、4頭立ての青銅の馬(クアドリガ)はヴェネツィアへ運ばれてサン・マルコ寺院の正面に据えられた。1453年に町を征服したオスマン帝国は戦車競走を継がず、競技場は石材を採る場となった。それでも跡地に建物が建て込むことはなく、広場は「アトメイダヌ(馬の広場)」と呼ばれて、祝祭や行列の場となり、イェニチェリの反乱の舞台にもなった。1609年から1616年にかけて、東側の大宮殿の跡にはスルタンアフメト・モスクが建てられている。

オベリスクの立つ広場と人々を描いた版画
アントワーヌ=イニャス・メリングが描いたアトメイダヌ(1819年)Antoine Ignace Melling / パブリックドメイン — Wikimedia Commons

建築的特徴

平面は細長いU字形で、北端に出発門(カルケレス)を、南端に半円形に湾曲した観覧席を置いた。走路の中央にはスピナと呼ばれる分離帯が通り、戦車はその周りを周回した。南端は地形が海の方へ下がるため、湾曲部のスフェンドネは、大きなアーチを連ねた煉瓦造の下部構造の上に築かれた。この下部構造は、競技場の建築として今も見られるほぼ唯一の部分である。

スピナには帝国各地から運ばれた記念物が並び、そのうち三つが残る。390年にテオドシウス1世がエジプトから運ばせたオベリスクは、前15世紀のトトメス3世の時代にカルナック神殿に建てられたもので、花崗岩の柱身は上部だけが現存する。皇帝が据えさせた大理石の台座には、観覧席から競技を見下ろす皇帝と宮廷や、オベリスクを立てる場面が浮彫で刻まれている。ギリシア諸都市がプラタイアの戦い(前479年)の勝利を記念してデルポイのアポロン神殿に奉納した「蛇の柱」は、コンスタンティヌス1世が移させた青銅の記念柱で、三匹の蛇が絡み合う柱身の下部が残る。もう一方の端に立つ石積みの「壁のオベリスク」は、10世紀にコンスタンティノス7世の手で整えられ、金めっきの青銅板で覆われていたが、板は十字軍に剥ぎ取られた。

浮彫で人物が刻まれた大理石の台座
テオドシウスのオベリスクの大理石台座(390年ごろ)。皇帝とその宮廷が浮彫で表されるFrancesco Bini / CC BY-SA 4.0 — Wikimedia Commons

意義・現在

コンスタンティノープル競馬場は、ローマのキルクスの形式を新しい都に移し、皇帝の宮殿と市民の空間を一つの場に結びつけた都市の装置であった。皇帝が姿を見せ、市民が歓呼し、ときに反乱を起こす場として、東ローマ帝国の政治史の多くの場面がここで演じられた。

現在のスルタンアフメト広場では、旧走路の線形が舗装でたどられ、二本のオベリスクと蛇の柱は、現在より約2メートル低い当時の地表面まで掘り下げた窪みの中に立っている。1950〜51年には考古学者リュステム・ドゥユランが発掘を行い、1980年代には周辺の家屋の撤去によってスフェンドネの下部構造が姿を現した。広場の北端には、1898年のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の訪問を記念して1900年に建てられた、ネオ・ビザンティン様式の「ドイツの泉」が立つ。一帯は1985年に「イスタンブール歴史地域」の一部として世界遺産に登録された。

煉瓦と石のアーチが連なる遺構の壁
スフェンドネの下部構造(1991年撮影)Mark Landon / CC BY 4.0 — Wikimedia Commons

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データ: Wikidata (Q387548) / 解説: Wikipedia 日本語版 · English / 画像: © Maurice Flesier / CC BY-SA 4.0 — Wikimedia Commons
LAST EDIT — 2026.10.28
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