ヨルダン東部の乾燥地に残るウマイヤ朝の謁見広間付き浴場。8世紀前半、後のカリフ・ワリード2世が皇太子時代に建てさせた。王侯や天球を描くフレスコ画は、初期イスラームの世俗美術を伝える稀少な遺例である。
§1 — 概要概要
アムラ城(Qasr Amra/Qusayr ʿAmra、アラビア語 قصير عمرة「アムラの小城館」)は、ヨルダンの首都アンマンから東へ約85km、アズラクへ向かう幹線道路沿いの乾燥地に建つウマイヤ朝の建物である。「城」と呼ばれるが軍事施設ではなく、謁見広間と小さな浴場をひとつの石造の建物にまとめたもので、王族が滞在する田園の離宮の一部をなしていた。いわゆる砂漠の城のなかで最もよく知られた遺構であり、1985年にユネスコの世界遺産に登録された。
名声を支えるのは建物の規模ではなく内部の壁画である。狩猟、入浴、舞踊、職人の労働、裸婦、天体が、壁からヴォールトまでほぼすべての面にフレスコで描かれている。
歴史
建設年代は長く議論の的であった。広間の壁画「六人の王」に、711年にウマイヤ朝軍に敗れた西ゴート王ロデリックが描かれていることから、かつてはカリフのワリード1世(在位705–715)の造営とする説が有力だった。しかし壁の銘文が施主をカリフではなく王子・皇太子と呼んでいることから疑問が出され、2012年、保存修復の過程で汚れの下から施主の名を記す銘文が読み出された。「神よ、ワリード・イブン・ヤズィードを正しき者となしたまえ」という祈願にはカリフの称号がなく、建物は後のワリード2世(在位743–744)が、叔父ヒシャームの治世下で皇太子であった時期(724–743年)に建てさせたものと考えられている。ワリードは首都ダマスカスを離れ、この一帯の草原で狩猟や詩・音楽に興じて過ごすことが多かった。
ウマイヤ朝の滅亡後に建物は放棄され、1898年にチェコの東洋学者アロイス・ムジルが再発見した。オーストリアの画家アルフォンス・レオポルト・ミーリッヒによる壁画の模写は、1907年にウィーンで刊行されたムジルの報告書を通じて欧州に知られた。壁画の一部は剥ぎ取られて、現在はベルリンのイスラーム美術館が所蔵している。
1971年から74年にかけてマドリードの国立考古学博物館の調査団が煤を除いて壁画を修復したが、保護のため塗ったシェラックがのちに変色して画面を覆った。1996年にグラナダ大学がこれを除去し、2010年前後からは世界記念物基金、イタリアの国立保存修復高等研究所、ヨルダン考古局が共同で、建物と壁画の保存に取り組んでいる。

建築的特徴
建物は石灰岩と玄武岩を粗く積み、石膏と石灰のモルタルで固めている。近くのハンマーム・アッサラフが同じ平面を後期ローマ流の整った切石積みで築いたのに対し、こちらは粗石と厚い目地によるサーサーン朝系の工法をとる。
中心となる謁見広間はおよそ14m×10.5mの長方形で、並行する3本の樽型ヴォールトが内部を3つの区画に分ける。外観もこの3連のかまぼこ形の屋根が特徴となる。入口の正面奥には玉座を置いた壁龕があり、その両脇にアプスをもつ小室が付く。広間の東には3室からなる浴場が続き、脱衣室は樽型ヴォールト、温浴室は交差ヴォールト、熱浴室であるカルダリウムはドームで覆われる。ローマの浴場の室の並びを小さく再現したもので、イスラーム世界に現存するハンマームとして最古級に数えられる。建物の北側には井戸と、家畜に回させて水を汲み上げた揚水車、貯水槽の遺構がある。
壁画の配置は建物の構成と対応している。玉座の壁龕には光輪を戴いて正面を向く君主像が描かれ、西区画の壁ではビザンツ皇帝、西ゴート王、サーサーン朝の王、エチオピアのネグスらがこれに向かって手を差し伸べる。東区画のヴォールトには鍛冶・石工・大工の働く姿が並び、建物を築く工程そのものが画題となっている。浴場には狩猟、庭園、楽器を奏でる動物などの気晴らしの情景が多い。入浴は生気を消耗させるので、浴室の壁は狩りや恋人や庭の絵で飾るべきだとした当時の医学の考えに沿ったものとみられる。
最もよく知られるのはカルダリウムのドームで、黄道十二宮と北天の星座が描かれている。曲面に天球を描いた例として知られる限り最古のもので、経線をドームの頂点ではなく天の北極から正しく放射させている。一方、星座の並びが実際の天とは逆回りになっていることから、平面の星図を写して描いたものと推定されている。

意義・現在
アムラ城は、ウマイヤ朝の宮廷文化を具体的に伝える数少ない遺構である。周辺諸国の君主を並べて施主の地位を示す図像、ローマ浴場の空間構成、サーサーン朝の工法と王権表象が、ひとつの小さな建物に重なっている。同じ王朝のウマイヤ・モスクや岩のドームが人物を描かないモザイクで宗教空間を飾ったのに対し、ここでは人物と物語が主役であり、初期イスラーム美術の世俗的な側面を知るうえで欠かせない資料となっている。
煤とシェラックが除かれた壁画は、近年の修復で往時に近い色彩を取り戻しつつある。