EST. 2026 — Editorial Archive of Notable Architecture

建築様式史 — CHAPTER 01

始原

Origins

人はなぜ建てるのか。住むためだけなら洞窟でも足りる。それでも新石器時代の人々は、身の丈を超える石を立て、足もとの土を高く積み上げた。様式という言葉がまだ意味をなさない時代に、建築はまず「囲い、積み、記念する」行為として始まる。

建築の誕生

建築の歴史は、雨風をしのぐ住まいから始まったのではない。少なくとも、痕跡を残して後世に伝わった最初の建築は、住むための器ではなく、社会・信仰・権力を目に見える形にした記念物であった。トルコ南東部のギョベクリ・テペでは、農耕も土器も現れる以前、いまから一万一千年あまり前に、狩猟採集の民がT字形の石柱を環状に並べた巨大な聖域を築いていた。定住や都市に先立って記念物が立てられたこの事実は、「まず住まい、やがて神殿」という素朴な順序を覆した。一個の石を地面に垂直に立てるメンヒル、数個の石を組んで石室をつくるドルメン——こうした巨石記念物もまた、加工された美しさよりも、重い石を立て、載せるという行為そのものに意味があった。共同体が労力を結集し、ある場所を「特別な場所」として刻む。様式や意匠を語る以前の、建築の最も素朴な動機がここにある。

巨石の論理

その一つの到達点が、イングランド南部ウィルトシャーのソールズベリー平原に立つストーンヘンジである。前3000年ごろ、円形の堀と土塁——ヘンジ——として始まり、千数百年をかけて姿を変えながら築かれた。圧巻は前2500年ごろ、二本の立石の上に水平のまぐさ石を渡したトリリトンを、環状に巡らせた段階である。立てて載せるというまぐさ式構造を、数十トンの巨石で実現した点に、この遺構の比類なさがある。直立する大きな砂岩は北方のマールバラ・ダウンズから、内側の小ぶりな青石ははるか西、二百キロ余り離れたウェールズの丘から運ばれたとされ、石を据える労力そのものが祭祀の一部であったことをうかがわせる。夏至の日の出の方角に主軸を合わせた配置は、天体の運行と信仰が建築の動機であったことを物語る。設計者の名は伝わらず、複数の世代の共同作業がこの環をかたちづくった。

日干し煉瓦と都市

石を持たない土地では、別の素材が記念碑を支えた。メソポタミアの沖積平野には石材も大木も乏しく、人々は足もとの粘土を日干し煉瓦に成形し、版築で突き固めて、巨大な量塊を積み上げた。その極致がジッグラトである。何層もの基壇を階段状に重ね、頂に神殿を戴いたこの構造物は、神々が天と地を行き来する人工の山として観念された。焼かない煉瓦は風雨に弱く、多くのジッグラトは崩れて土の丘に還ったが、前21世紀にウル第3王朝のウル・ナンム王が月神ナンナに捧げて着工し、息子シュルギが完成させたウルのジッグラトは、現存最良の例として残る。石の永遠とは異なる、塗り直しと更新を前提とした土の記念碑であった。

石の永遠

ほぼ同じころ、ナイルのほとりでは、土ではなく石が永遠を約束していた。その出発点は、前2650年ごろにイムホテプが築いたと伝わるジェセル王の階段ピラミッドである。日干し煉瓦の墳墓(マスタバ)を石に置き換えて積み重ねる着想が、史上初の大規模な切石建築を生み、やがて階段状の輪郭は滑らかな四角錐へと洗練されていく。エジプトのギザ台地に立つ大ピラミッドは、第4王朝のファラオ・クフ王の墓として前2560年ごろに完成した。一辺約230メートルの正方形の底面に、二百数十万個ともいわれる石灰岩を四角錐へと積み上げた、純粋な幾何学の塊である。表面はかつて磨いた化粧石灰岩で覆われ、白く輝いていた。原高約146メートルは、以後3800年あまりにわたり、人類が築いた最も高い建造物であり続けた。それを支えたのは奴隷ではなく、暦と季節に沿って編成された労働者の組織であったことが、近年の発掘から分かってきている。墓でありながら、建築はすでに測量・幾何・労働編成という、後の大建築に通じる条件を備えていた。積み、立て、囲い、記念する——この章で見た原初の行為は、続く時代に「組み、架ける」体系へと洗練されていく。