サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 Basilica di Santa Maria Maggiore
ローマ、エスクイリーノの丘に建つ教皇バシリカ。エフェソス公会議の直後、430年代にマリアへ捧げて建てられ、身廊と凱旋アーチに5世紀のモザイクを伝える。正面は18世紀にフーガが設計した。
§1 — 概要概要
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は、ローマの四大バシリカの一つに数えられる教皇バシリカである。エスクイリーノの丘に建ち、ローマ最大のマリア聖堂として「すべてのマリア聖堂の母」と呼ばれる。431年のエフェソス公会議がマリアを「神の母(テオトコス)」と宣言した直後、教皇シクストゥス3世のもとで432年に着工され、434年8月5日に献堂された。ローマの主要な聖堂のうち、初期キリスト教時代のバシリカ構成を最もよく保っている。ラテラノ条約により建物は聖座の所有で、治外法権をもつ。「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂」の構成資産としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
歴史
伝承は、教皇リベリウス(在位352〜366)の時代、盛夏の8月5日にエスクイリーノの丘へ降った雪が聖堂の輪郭を示したと語る。「雪の聖母」と呼ばれるこの物語は11世紀以降の文献にしか現れず、リベリウス期の建物と現聖堂との関係は確定していない。現在の聖堂は、教皇ケレスティヌス1世からシクストゥス3世の治世にかけて建設された。凱旋アーチに残る「司教シクストゥス、神の民へ」の献辞が、その事業を証している。
1348年の地震で損傷を受けたが、躯体は保たれた。14世紀には高さ約75メートルの鐘楼が加えられ、ローマで最も高い鐘楼となっている。16世紀にはジュリアーノ・ダ・サンガッロの図案による格天井が架けられ、続いてシクストゥス5世の墓所を含むシスト礼拝堂をドメニコ・フォンターナが、パオリーナ礼拝堂をフラミニオ・ポンツィオが設計した。1741年、教皇ベネディクトゥス14世はフェルディナンド・フーガに正面の改築と内部の改修を命じ、1743年に現在のファサードが完成する。1966年には聖堂の地下から、暦を刻んだローマ時代の建物の遺構が発見された。2025年、教皇フランシスコがこの聖堂に埋葬されている。
建築的特徴
平面は身廊と二つの側廊からなる三廊式で、5世紀ローマの公共バシリカの構成をほぼそのまま伝える。身廊を分ける40本の円柱は古代建築からの転用材であり、フーガが長さを揃えて金銅の柱頭を与えた。
最大の見どころは5世紀のモザイクである。身廊上部にはモーセと紅海渡渉をはじめとする旧約の場面が、アプス前の凱旋アーチにはキリストの幼年伝とマリアが描かれる。身廊のモザイクが動きと色彩に富む晩期古代の絵画的手法をとるのに対し、アーチのそれは平面的で儀礼的であり、同一の事業のうちに複数の作風が併存したことを示す。アプスを飾る《聖母の戴冠》は1295年、ヤコポ・トッリーティが署名した13世紀の作である。
フーガのファサードは、12世紀のモザイクを損なわぬよう、その前面にロッジアを重ねる二層構成をとった。左右には同形の翼が配され、聖堂の正面は宮殿のような姿で広場に向き合う。中世の遺産を破壊せずに包み込むこの解法は、18世紀ローマの都市的感覚をよく示している。
意義・現在
この聖堂は、公会議の決定が建築と図像に直ちに翻訳された稀な例である。ここで定められたマリア像の型は、後の西方教会の表現を長く規定した。主祭壇下の降誕の礼拝堂には、キリストの飼い葉桶の遺物とされる木片を納めた聖遺物容器が置かれ、聖書をラテン語へ訳したヒエロニムスもここに葬られている。パオリーナ礼拝堂には、ローマ市民の守護と信じられてきたイコン《サルス・ポプリ・ロマーニ》が安置される。
現在も四大バシリカの一つとして、また七大巡礼聖堂の一つとして多くの参詣者を集める。シスト礼拝堂のすぐ外にはジャン・ロレンツォ・ベルニーニと家族の墓があり、8月5日には天井から白い花弁を降らせて「雪の奇跡」が再演される。