サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂 Archbasilica of St. John Lateran
ローマ司教座が置かれた「全世界の教会の母にして頭」。4世紀初頭にコンスタンティヌス帝が寄進した土地に建てられた西方最古のバシリカで、度重なる災厄と再建を経て、ボッロミーニの内部とガリレイのファサードによって現在の姿となった。
§1 — 概要概要
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂は、ローマ司教=教皇の司教座聖堂であり、カトリック教会が「ローマと全世界のすべての教会の母にして頭」と呼ぶ聖堂である。世界で唯一「アーチバシリカ」の称号をもち、四大教皇バシリカのうち最も古い。バチカン市国の外にあるが、1929年のラテラノ条約により、教皇庁の資産として治外法権が認められている。ローマ市内で最初に建てられた公の教会堂であり、西方世界最古のバシリカでもある。
歴史
聖堂が建つ場所には、193年にセプティミウス・セウェルスが設けた皇帝直属騎兵の兵営があった。この騎兵隊はミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスに与したため解体され、兵営も取り壊される。残る敷地はラテラニ家の邸宅が占めており、コンスタンティヌス1世がマクセンティウスの妹ファウスタと結婚したことで皇帝の手に渡った。313年のミラノ勅令の翌年、皇帝はこの土地と邸宅をローマ司教に贈り、兵営跡に最初のバシリカが建てられた。324年、教皇シルウェステル1世が救世主キリストに捧げて正式に献堂し、邸宅は「神の家」と改称された。以後、教皇はこの地に居住し、ラテラノ宮殿は中世を通じて教皇庁の所在地であり続けた。
当初の聖堂は五廊式で、中央身廊が高く立ち上がってクリアストーリーから光を採り、正面と反対側にアプスを置いて司教座を据えていた。豪奢な献納品ゆえに「黄金のバシリカ」と呼ばれ、それがヴァンダル族による略奪を招く。5世紀にレオ1世が修復するが、897年の地震で「祭壇から扉まで崩れ落ちた」と記されるほど倒壊した。再建された第二の聖堂は約400年を保ち、1308年と1360年の二度の火災で焼け落ちる。教皇がアヴィニョンに移っていた時期であり、聖堂も宮殿も往時の輝きを失った。
決定的な再建は16世紀末、シクストゥス5世の事業である。教皇はドメニコ・フォンターナに古い宮殿を取り壊させて新築し、翌年には市街へ向く翼廊側の正面を建て替え、新しい祝福のロッジアを設けた。その前には、カルナックから運ばれローマに眠っていた古代エジプトのオベリスクが1588年に再び立てられた。17世紀半ば、インノケンティウス10世はフランチェスコ・ボッロミーニに内部の全面改造を委ね、正面ファサードは、クレメンス12世が催した設計競技を制したアレッサンドロ・ガリレイの手で1735年に完成した。
建築的特徴
外観を決めているのはガリレイのファサードである。巨大なオーダーで二層をまとめ、上部にペディメントと手すり壁、キリストと聖人たちの巨像を戴く。バロックの装飾語彙をほとんど用いず、宮殿を思わせる厳格な壁面を選んだこの設計は、当時のローマで論議を呼んだ。古代バシリカの痕跡を外から消し去った代償と引き換えに、新古典主義へ向かう感覚をいち早く示している。
内部はボッロミーニの仕事である。天井と床という既存の要素を動かせない条件のもと、彼は身廊を分けていた古代の列柱を巨大な柱体で包み込み、その面に穿った12の壁龕を設けた。壁龕は1718年、ローマのロココ期を代表する彫刻家たちによる使徒像で埋められる。側廊には奥へ抜ける視線の重なりが仕組まれ、制約の多い改造でありながら彼の最良の作の一つに数えられる。中世から引き継がれたのは、マルティヌス5世期のコスマーティ装飾の床、主祭壇上のチボリウム、そして後に修復されたアプスのモザイクである。
意義・現在
サン・ピエトロが「大きい方の聖堂」として広く知られるのに対し、教会法上のローマの大聖堂はこちらである。ここには重層する時間がそのまま残っている。ローマの兵営の遺構が身廊の下に眠り、初期キリスト教のバシリカ形式が平面を規定し、バロックが柱を包み、18世紀の古典主義が外皮を与えた。様式の交代が、一つの建物の断面として読める。
第二次世界大戦期には、教皇ピウス12世のもとでユダヤ人や政治的な避難民を匿う場所となった。1993年7月のローマ連続爆弾事件では玄関廊が被害を受けている。フランス共和国大統領が職権上「第一かつ唯一の名誉参事会員」の称号をもつという中世以来の慣習も続いている。献堂記念日である11月9日は、カトリック教会全体の祝日とされる。
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