エルサレム旧市街、神殿の丘/ハラム・シェリーフの西側を支える擁壁。前19年頃に…
ローマ皇帝ハドリアヌスがティヴォリ近郊に造営した広大な離宮。118年ごろ着工し、30を超える建物を庭園と水盤のあいだに配した。曲面を駆使したコンクリートの空間は、古代ローマ建築の到達点の一つとされる。
§1 — 概要ヴィッラ・アドリアーナ(Villa Adriana/ラテン語 Villa Hadriana)は、ローマ皇帝ハドリアヌス(在位117〜138年)が、ローマの東約28キロ、ティヴォリの丘の麓に造営した離宮である。「ヴィラ」の名で呼ばれるが、実態は宮殿・浴場・劇場・図書室・庭園・宿舎を擁する一つの町に近く、30を超える建物が高さの異なる人工の台地に配されている。敷地は少なくとも1平方キロメートルに及び、ポンペイの市域をしのぐ。曲面と複雑な対称性をもつ平面をローマン・コンクリートで実現した点で、古代ローマ建築の頂点の一つに数えられる。
敷地には共和政期の別荘がいくつか先行しており、そのうちの一つは皇后ウィビア・サビナの所有であった可能性がある。ハドリアヌスは即位から間もない118年ごろ造営に着手し、この旧別荘を取り込んで皇帝の居所とした。煉瓦に押された製造刻印の分析から、工事はおおむね118〜121年、125〜128年、134〜138年の三期に集中したと考えられている。皇帝は治世の多くを帝国各地の巡行に費やし、ここに腰を落ち着けたのは晩年の数年にすぎないが、宮廷は常駐し、不在のあいだも建設は続いた。南劇場の煉瓦には137年の刻印があり、138年に皇帝が没した時点でなお未完の部分があったとみられる。
没後も歴代皇帝が折に触れて用い、3世紀末にはディオクレティアヌス帝が修復を加えた。しかし4世紀以降、帝国の重心が東へ移るとともに荒廃が進み、彫像や良質の大理石は持ち去られていった。6世紀のゴート戦争では東ゴート、東ローマ両軍の野営地となり、その後も建材の採取場と化した。15世紀後半に人文主義者フラヴィオ・ビオンドが遺跡を記録し、教皇ピウス2世も著作で取り上げて関心が高まる。16世紀には枢機卿イッポーリト2世・デステが、近くに営んだヴィッラ・デステを飾るため大理石や彫像を運び出し、その設計者ピッロ・リゴーリオも発掘を行った。以後の「宝探し」によって、多くの彫刻や建築部材が欧州各地のコレクションへ散った。
建物はトラバーチン、煉瓦、石灰、ポッツォラーナ(火山灰)、凝灰岩で築かれた。別荘は丘の上に置くのが通例であったが、この離宮はあえて低地に設けられている。噴水や池を満たす大量の水を、ローマへ向かう水道(アニオ・ウェトゥス、アニオ・ノウス、マルキア、クラウディア)から引くためである。
4世紀の伝記集『ローマ皇帝群像』は、ハドリアヌスが各区画にリュケイオン、アカデメイア、カノプス、ポイキレ、テンペなど帝国各地の名所の名を与えたと伝える。ただし建物は原型の再現ではなく、名所を想起させつつ当時最新のローマの工法で組み立てられている。
もっとも独創的とされるのが、通称「海の劇場」である。円形の外壁の内側に樽型ヴォールトを架けたイオニア式の列柱廊を巡らせ、環状の水路で隔てた直径約25メートルの島に、図書室・食堂・小浴場を備えた小邸宅を置く。島へは木製の跳ね橋で渡った。ローマ建築には珍しい左右対称の平面をもち、造営の最初期に着工した建物の一つで、皇帝の私的な隠れ家と解されている。
「カノプス」は、エジプトの同名の町へ通じるナイルの運河に想を得た細長い池である。周囲にはエレクテイオンのカリアティードの模刻などの彫像が並び、奥のドームを架けた巨大なエクセドラには、半円形の石造寝台を据えた食堂が設けられて池を見渡した。「黄金の広場(ピアッツァ・ドーロ)」は、61×51メートルのペリスタイルで庭園を囲む最も豪奢な区画で、その玄関広間は傘状に分節されたドームで覆われ、ハドリアヌス期のヴォールト技術をよく示す。浴場の一室「ヘリオカミヌス」は、南西に大窓を開いて日差しを取り込み、床下のハイポコーストと併せて室内を温めた。ほかにも、天然の洞窟を模したニンファエウムや、日陰の散策路となるクリプトポルティクスが各所に組み込まれている。
凹凸の曲面を連ねて複雑な対称性を描く平面は、17世紀にバロック建築が現れるまで比肩するものがないとされ、とりわけボッロミーニに着想を与えたと評される。ルネサンス以降、遺跡は建築家や芸術家が古代の空間を実地に学ぶ場となった。1999年にユネスコ世界遺産に登録され、周囲には新たな建設を制限する緩衝地帯が設けられた。敷地の大半は国有で、イタリア文化省の管轄下で公開されているが、なお多くが未発掘のまま残り、周縁部には私有地も含まれる。