シュテファン大聖堂 St. Stephen's Cathedral
ウィーン旧市街の中心に立つ大司教座聖堂。1137年の教区教会に始まり、14世紀以降のゴシック改築で高さ約136メートルの南塔と23万枚の施釉瓦で紋章を描いた屋根を得た、オーストリアを代表する石造建築である。
§1 — 概要概要
シュテファン大聖堂(Stephansdom)は、ウィーン旧市街の中心に立つカトリックの大聖堂であり、ウィーン大司教座聖堂である。12世紀の教区教会に始まり、14世紀以降のゴシック改築によって現在の姿を得た。高さ約136メートルの南塔と、23万枚の施釉瓦で紋章を描いた急勾配の屋根は、市の象徴として広く知られる。
歴史
1137年、パッサウ司教レギンマルと辺境伯レオポルト4世のあいだで結ばれたマウテルン条約により、新しい教区教会の用地が確保された。10年後の1147年、第2回十字軍に出発しようとするコンラート3世やフライジング司教オットーらの列席のもと、聖ステファノに献堂されている。最初の建物は1160年に完成した。1230年から1245年にかけて西へ拡張され、現在の西正面と2基のロマネスク塔はこのときのものである。1258年の大火で大半を失うが、2基の塔を残したまま同じくロマネスク様式で建て直され、1263年4月23日に再度献堂された。
ゴシック化は東から始まる。1304年、アルブレヒト1世が三廊式の内陣(アルベルティン内陣)の建設を命じ、1340年に献堂された。1359年4月7日、ルドルフ4世がその西側への拡張の礎石を据える。この拡張は最終的に古い建物を包み込み、1430年には内側に残っていた旧堂が撤去された。
南塔は1368年から1433年まで、65年を要して建てられた。途中、1403年から翌年にかけて棟梁を務めたヴェンツェル・パルラーの代に工事が原案から大きく逸脱し、数年分の工事が取り壊される事態が起きている。設計を改めて塔を完成させたのは、ペーター・フォン・プラハティッツとハンス・フォン・プラハティッツである。完成時の高さは、1439年にストラスブール大聖堂の尖塔が建つまでヨーロッパ最高であった。
身廊はマテス・ヘルプリング、続いてハンス・プフスバウムのもとで進み、当初の広間式の計画は身廊をわずかに高くしつつ高窓を持たない擬バシリカへ改められた。1446年から1474年にかけての架構はラウレンツ・シュペニングの代に完成している。1450年には北塔の礎石も据えられたが、1511年に大規模工事は中断し、塔は未完のまま残った。1578年、その塔身の上にルネサンス様式の鐘楼と冠が載せられ、現在の高さ68メートルとなっている。1511年から15年にかけては、アントン・ピルグラムがバウヒュッテを率いてオルガン台座などを手がけた。
1469年にウィーン司教区が置かれて当聖堂がその司教座となり、1722年には大司教座へ昇格した。1945年4月、市街戦のさなかに近隣の商店から燃え移った火が屋根の木造小屋組を焼き、屋根は崩落した。説教壇や皇帝フリードリヒ3世の墓廟などは煉瓦の覆いで守られたが、1487年の聖歌隊席は失われている。なお同じ月、市の司令官から砲撃して瓦礫にせよとの命令を受けた国防軍の大尉ゲアハルト・クリンキヒトが、これを実行しなかったことが知られる。復旧はただちに始まり、1948年12月に一部が、1952年4月23日に全体が再開された。
建築的特徴
石灰岩造で、全長107メートル、幅40メートル、最高部136メートル。長らく煤煙で黒ずんでいたが、近年の修復で一部は本来の白さを取り戻している。
南塔はウィーン市民から「シュテッフル」の愛称で呼ばれる。1529年と1683年の二度のオスマン軍によるウィーン包囲では防衛の観測・指揮所として使われ、1955年までは火災を見張る監視人が常駐する住居が塔内にあった。北塔は当初これと対をなす高さで計画されていたが、実現しないまま止まっている。
主入口の「巨人の門」(リーゼントーア)と、その両脇に立つ高さ約65メートルの「異教徒の塔」(ハイデントゥルメ)は建物中で最も古い部分にあたる。塔の名は、ローマ時代の建物の廃材を用いて築かれたという伝えに由来する。ティンパヌムには全能者キリストと二人の天使が彫られる。
屋根は長さ111メートル、23万枚の施釉瓦で葺かれ、南側の内陣上にはハプスブルク家の双頭鷲が、北側にはウィーン市とオーストリア共和国の紋章が瓦のモザイクで描かれる。勾配が急なため雨が汚れを流し、雪も積もりにくい。1945年に焼失した小屋組は、同規模の木造を再現する費用が見合わず、600トンを超える鋼材で組み直された。
身廊の天井は、肋骨が曲線を描いて絡み合う豊かな網目ヴォールトである。石造の説教壇は後期ゴシック彫刻の傑作で、説教が会衆に届くよう内陣ではなく身廊の柱に寄せて置かれる。側面には四人の教父が、手すりには噛み合うトカゲとヒキガエルが彫られ、階段の下には窓から身を乗り出す人物像「フェンスターグッカー」がある。長くアントン・ピルグラムの自画像と伝えられてきたが、説教壇そのものの作者については今日ニクラウス・ゲルハールト・ファン・ライデンとする見方が有力である。
北塔に吊られる大鐘プンメリン(正式名マリーエングロッケ)は重量約20.1トン、口径3.14メートルでオーストリア最大の鐘である。1705年に鋳られた旧鐘はオスマン軍から鹵獲した約300門の大砲の金属を含んでいたが、1945年の火災で落下して砕けた。その破片を混ぜて1951年に新造され、1957年から用いられている。
意義・現在
一つの建物のうちにロマネスクの西正面とゴシックの本体が併存し、さらにルネサンスの塔冠と20世紀の鋼構造の屋根が重なる。数世紀にわたる工事をバウヒュッテが引き継ぎながら進めた中世大建築の典型であり、その断面には各時代の判断がそのまま残されている。
1945年の焼失と再建は、戦後オーストリアの復興と結びつけて語られてきた。プンメリンが鳴らされる大晦日の中継は、その記憶を毎年更新する行事でもある。現在も大司教座聖堂として日々の典礼に用いられ、同時にウィーンを訪れる者の大半が立ち寄る場所となっている。ユネスコ世界遺産「ウィーン歴史地区」の中核をなす建造物である。