フォンテーヌブロー宮殿 Palace of Fontainebleau
パリの南東約55キロ、フォンテーヌブローの森に接するフランス王家の宮殿。12世紀の狩猟館を起源とし、1528年からフランソワ1世が改築してイタリア・ルネサンスを導入した。歴代君主の増築が重なる複合的な宮殿で、フォンテーヌブロー派の室内装飾で知られる。
§1 — 概要概要
フォンテーヌブロー宮殿は、パリの南東約55キロメートル、セーヌ=エ=マルヌ県フォンテーヌブローにある旧王宮である。狩猟に適した広大な森に接し、中世から19世紀まで歴代の君主が主に秋の滞在地として用いた。フランソワ1世の改築を機に、イタリア・ルネサンスの建築と装飾がフランスへ本格的に持ち込まれ、ここで活動した芸術家たちはフォンテーヌブロー派と呼ばれる。約800年にわたる増改築の跡をとどめる宮殿は、1927年に国立美術館となり、1981年に「フォンテーヌブローの宮殿と庭園」として世界遺産に登録された。
歴史
王の居館としての記録は、1137年のルイ7世の文書にさかのぼる。当初は壁に囲まれた方形のドンジョンを中心とする狩猟館で、この塔は後の改変を受けながら、現在も楕円の中庭(クール・オヴァール)の一角に残る。
1528年、フランソワ1世は中世の城館の大改築に着手した。国王の石工棟梁ジル・ル・ブルトンが工事を率い、古い壁を生かしながら楕円の中庭を囲む建物や、イタリア風の門楼ポルト・ドレを築いた。王はイタリアから画家ロッソ・フィオレンティーノとフランチェスコ・プリマティッチオを招き、内部の装飾を託す。1540年ごろからは東側の土地を加えて新しい中庭を囲む棟が建てられ、庭園も整えられた。
アンリ2世の治世にはフィリベール・ド・ロルムが工事を指揮し、フランソワ1世期にロッジアとして計画された空間を大舞踏の間に改め、白馬の中庭に馬蹄形階段を設けた。王の没後、カトリーヌ・ド・メディシスのもとでプリマティッチオが王室建築の監督官となり、1565年から1570年にかけて美しい暖炉の翼棟(ベル・シュミネ翼)を設計している。その後はジャン・ビュランらが工事を継いだ。
アンリ4世は、中庭のファサードの整備、厨房と廷臣の住居を収めるオフィスの中庭の建設、長さ約1.2キロメートルの運河を含む庭園の造営など、大規模な工事を進めた。ルイ13世の代には、建築家ジャン・アンドルーエ・デュ・セルソーが1632〜34年に馬蹄形階段を現在の姿へ造り替える。ルイ15世は1750年代にアンジュ=ジャック・ガブリエルに命じ、泉の中庭に面した旧棟を大パヴィリオン(グロ・パヴィヨン)へ建て替えさせた。
革命期に家具は売却されたが、建物は大きな損傷を免れた。ナポレオン1世は居室を帝政様式で改装し、白馬の中庭をクール・ドヌール(名誉の中庭)と改めた。1812年から14年にかけては教皇ピウス7世がここに留め置かれ、1814年4月にナポレオンはこの宮殿で退位し、名誉の中庭で近衛兵に別れを告げた。このため同中庭は「別れの中庭」とも呼ばれる。第二帝政期には、ナポレオン3世のためにエクトール・ルフュエルの設計で劇場が設けられた。
建築的特徴
宮殿は一本の軸線で統一された計画ではなく、楕円の中庭、泉の中庭、白馬の中庭など複数の中庭を核に、時代ごとの棟を継ぎ足して形づくられている。整然とした構成を欠く代わりに、中世からルネサンス、古典主義、帝政期までの様式を一つの敷地で見比べられることが、この宮殿の特質である。
見どころの筆頭はフランソワ1世のギャラリーである。長さ約60メートル、幅約6メートルの細長い空間を、ロッソが1530年代半ばから装飾した。腰壁を木彫の羽目板とし、その上に王を讃える寓意的なフレスコ画を並べ、周囲を高浮彫のスタッコ彫刻で縁取る。人物像や花綱、巻き上がる革帯のようなストラップワークを組み合わせた額縁装飾は、絵画・彫刻・木工を一体とする新しい室内装飾の手法として、版画を通じてヨーロッパ各地に広まった。
長さ約30メートル、幅約10メートルの大舞踏の間は、格天井の下の壁面をプリマティッチオの構想によるフレスコ画が埋める。白馬の中庭に面した正面では、左右に分かれて弧を描き、上部の踊り場で合流する馬蹄形階段が宮殿の象徴となっている。
意義・現在
フォンテーヌブロー宮殿は、フランスにおけるルネサンスの受容を先導し、マニエリスムの室内装飾をアルプス以北に根づかせた拠点である。ナポレオンは後年、この宮殿を「世紀の家」と評した。現在は国立美術館として公開され、歴代君主の居室、礼拝堂、劇場、広大な庭園と運河を含む敷地全体が保存されている。