特集 — FEATURE
スィナンの名はどこまで届いたか——オスマン帝国に散る14作 1543–1580
How Far Did Sinan's Name Reach? Fourteen Works across the Ottoman Empire, 1543–1580名築が収録する公開済みの建物のうち、ミマール・スィナンを設計者に結んでいるものは14件ある。8件がイスタンブール、1件がエディルネにあり、残る5件はボスニア・ヘルツェゴビナに2件、ブルガリア、シリア、クリミア半島に1件ずつ散らばる。現在は5か国にまたがるが、16世紀にはすべてがオスマン帝国の版図の中にあった。
本稿はこの14件を地図と年表に置き、並べて見える傾向を読む。都から遠い作ほど「スィナンの作」の中身が変わること、ミナレットの数とドームの径が寄進者の身分をなぞること、スィナン自身が三つのモスクで自らの経歴を語ったこと、そして皇女と宰相たちが繰り返し彼に仕事を頼んだことである。
14件を地図に置く
名築がミマール・スィナンに結んでいる14件のうち、9件は現在のトルコにある。イスタンブールに8件、かつての帝都エディルネにセリミエ・モスクがある。残る5件はトルコの外にある。ボスニア・ヘルツェゴビナのヴィシェグラードにソコルル・メフメト・パシャ橋、モスタルにカラジョズ・ベグ・モスク、ブルガリアのソフィアにバニャ・バシ・ジャーミイ、シリアのダマスカスにテッキーヤ・スレイマニエ、クリミア半島のイェウパトーリヤに金曜モスク(ジュマ・ジャミ)が建つ。記事末の表の国名は現在のもので、クリミアはウクライナとして数えている。
名築の各建物の座標から、イスタンブールのスレイマニエ・モスクを起点に直線距離を測ると、エディルネまで約210キロ、ソフィアまで約500キロ、イェウパトーリヤまで約590キロ、ヴィシェグラードまで約850キロ、モスタルまで約950キロ、ダマスカスまで約1,060キロとなる。
これらの土地が帝国に入った時期と、帝国の中での位置はそれぞれ異なる。ソフィアは1382年ごろに征服され、1530年から1836年まではバルカン半島を治めるルメリ州の州都であった。ボスニア王国は1463年に倒れ、モスタルを含むヘルツェゴビナも1482年までに帝国に入った。ダマスカスを含むシリアは、1516年にセリム1世がマムルーク朝から奪った土地である。クリミアのハン国は1475年以来オスマン帝国の保護を受ける属国で、イェウパトーリヤはオスマン側でギョズレヴェと呼ばれた港町であった。14件は、都と旧都、バルカンの州、アラブの州、黒海北岸の属国の四つにまたがっていたことになる。

着工の年で並べると、遠方の5件の時期は一つの期間にまとまる。都では1543年にシェフザーデ・モスクとユスキュダルのミフリマー・スルタン・モスク、1550年にスレイマニエ・モスクが起工した。遠方の作はその後に続き、1552年にジュマ・ジャミ、1554年にテッキーヤ・スレイマニエ、1557年にカラジョズ・ベグ・モスク、1566年にバニャ・バシ・ジャーミイ、1571年にソコルル・メフメト・パシャ橋の工事が始まっている。この20年ほどのあいだに、都ではスレイマニエ(1550–57年)とセリミエ(1568–75年)の二つの大事業が進んでいた。ジュマ・ジャミが起工したとき、スィナンはスレイマニエの工事にかかりきりであったという。
なお、表のトプカプ宮殿の着工年1459年は宮殿そのものの造営の年である。スィナンが関わったのは1574年の火災のあとで、焼けた厨房群を再建し、ハレムや浴場を広げた。14件の中で、建物を一から建てたのではない唯一の例である。
「スィナンの作」の幅:自ら建てた作、図面を送った作、名が帰された作
スィナンは1539年に宮廷主席建築家に任じられ、約50年その職にあった。英語版Wikipediaによれば、彼はこの職を帝国全体の建設を統べる官庁に育て、多くの助手と弟子を抱えた。自伝に付された作品表は数百の建物を挙げるが、そのすべてを自ら設計できたはずはなく、地方の重要度の低い建物は助手に任せたとされる。都から遠い仕事は、彼の設計を助手や在地の建築家が建てたとみられている。
名築は14件すべてをスィナンに結んでいるが、各建物のページを読み比べると、関わり方の確かさには幅がある。
もっとも確かなのは、都で自ら指揮した帝室の大事業である。シェフザーデ、スレイマニエ、セリミエの三つのモスクは、スィナン自身が手がけた大事業として挙げられる。
都から遠くても、図面と施工の分担が記録に残る作がある。テッキーヤ・スレイマニエの西側の建物群は、スレイマン1世の命で1554年から59年にかけて、スィナンの図面に従って在地の職人が建てた。中庭を囲む構成と鉛のドームは帝都の型にならうが、モスクの壁には白と黒の石を交互に積むアブラクが用いられた。アブラクはシリアに由来する手法で、建設地もかつてマムルーク朝のスルタン、バイバルスが建てた「アブラク宮殿」の跡であった。帝都の平面に、在地の石の積み方が重なったとも読める。

イェウパトーリヤとモスタルの2件は、スィナンの自伝の作品表に載る。歴史家ギュルル・ネジポールが二つの自伝の作品表から拾い出した金曜モスク77件のなかに、ジュマ・ジャミ(1552年ごろ)とカラジョズ・ベグ・モスク(1557–58年)が入っている。ただし作品表は、主席建築家の職が責任を負った建物を挙げたものでもあり、スィナンがどこまで自ら手を動かしたかは分からない。名築もカラジョズ・ベグ・モスクについては「スィナンまたはその工房の関与とみるのが穏当」と書き、スィナンとの関連を確定したものとしては扱っていない。
ソフィアのバニャ・バシ・ジャーミイは、この77件に入っていない。作品表に載るソフィアの金曜モスクは1547–48年のソフ・メフメト・パシャ・モスクで、20世紀初めに教会へ改められた。バニャ・バシの寄進者はカーディー・セイフッラー・エフェンディと伝えられ、モスクの前の石板はスィナンの作と記すが、トルコ語版Wikipediaはこれを確かめられていない情報としている。名築のページも、スィナンへの帰属には確かな裏づけがないとしている。
都から遠いほど作者の確かさは薄れるように見えるが、それは距離だけで決まるのではない。もっとも遠いダマスカスのテッキーヤは、スルタンの寄進で図面の出どころまで分かる。都に近いソフィアのモスクは地元の寄進で、作品表に名がない。誰が建てさせたかが、記録の残り方を左右したとも読める。
ミナレットの数とドームの径:寄進者の身分をなぞる
オスマン建築では、二本以上のミナレットをもつことはスルタンが寄進したモスクに許されたとされる。14件のうち、橋と宮殿を除くモスク12件を数えると、この決まりが名築の収録する例にもはっきり表れる。
四本をもつのは、スレイマン1世のスレイマニエ・モスクとセリム2世のセリミエ・モスクの2件である。セリミエの四本は、約71メートルの同じ高さで礼拝室の四隅に立つ。二本をもつのは4件で、スレイマン1世が亡き皇子のために建てたシェフザーデ・モスク、同じくスレイマン1世が寄進したダマスカスのテッキーヤ、そしてユスキュダルのミフリマー・スルタン・モスクとイェウパトーリヤのジュマ・ジャミである。残る6件、すなわちスィナン・パシャ・ジャーミイ、ソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミイ、クルチ・アリ・パシャ・ジャーミィ、エディルネ門のミフリマー・スルタン・ジャーミイ、カラジョズ・ベグ・モスク、バニャ・バシ・ジャーミイは一本である。
大宰相と二人の大提督のモスクがいずれも一本にとどまるのに対し、二本をもつ例外の2件は、どちらも君主の一族に関わる。ユスキュダルのモスクはスレイマン1世の娘ミフリマー・スルタンの寄進である。ただし同じミフリマーがのちにエディルネ門に寄進したモスクは一本であり、同じ寄進者でも数は一定しない。ジュマ・ジャミは、クリム・ハン国の君主デヴレト1世ギレイが建てさせたモスクである。イスタンブールでハン位を認められた君主はギョズレヴェに上陸し、このモスクで臣下に支配の正統性を示したと伝えられる。属国とはいえ自らの国の君主であったハンのモスクが二本のミナレットをもつことに、その立場がうかがえる。二本のミナレットは17世紀と19世紀にそれぞれ失われ、1985年に復元された。


ドームの径も、おおむね同じ序列をなぞる。名築の各ページの数値で比べると(カラジョズ・ベグのみ英語版Wikipediaによる)、スルタンのモスクはシェフザーデが約19メートル、スレイマニエが約26.5メートル、セリミエが約31.3メートルである。皇女ミフリマーのエディルネ門のモスクは20メートルに達するが、大宰相ソコルル・メフメト・パシャのモスクは約13メートル、大提督スィナン・パシャのモスクは12.6メートルにとどまる。バルカンの2件は、地元の寄進によるバニャ・バシが約15メートル、カラジョズ・ベグが10.65メートルである。バルカンの地方のモスクは一般に、単一のドームに一本のミナレットを立てる型であったとされ、ソフィアとモスタルの2件はまさにその型に当てはまる。
三つのモスクで語る経歴:徒弟、職人、親方
スィナンは晩年に友人へ口述した自伝のなかで、三つのモスクを自らの経歴の段階になぞらえた。シェフザーデ・モスクを徒弟の時期の作、スレイマニエ・モスクを職人の時期の作、セリミエ・モスクを親方の時期の作と呼んだのである。三つとも名築に収録されており、並べると、ドームをどう支えるかという一つの問いの変化が見える。
シェフザーデ・モスク(1543–48年)は、中央のドームの四方を四つの半ドームが囲む、完全に対称な構成をとる。スィナンは荷重を少数の控壁と柱に集め、その間の壁を薄くして窓を多く開いた。この四方対称の型は後の建築家たちに好まれたが、スィナン自身はこれに満足せず、以後の作で繰り返さなかった。
スレイマニエ・モスク(1550–57年)は、中央ドームの前後にだけ半ドームを置く。これはビザンティン建築の大聖堂アヤソフィアの構成であり、先立つバヤズィト2世モスクもこの形をとっていた。スィナンはここでも支柱を壁の中に隠し、多くの窓から光を入れた。
セリミエ・モスク(1568–75年)では、八本の支柱が八角形に並んで直径約31.3メートルのドームを支える。支柱は外壁と一体になり、礼拝室はほとんど一つの空間となった。そのドームは、オスマン建築で初めてアヤソフィアの主ドームに並ぶ径に達した。



三つの大作のあいだを、14件の中の小さなモスクがつないでいる。スィナンの設計の核は、ドームとそれを支える柱の組をひとまとまりとして扱うところにあり、柱は四本・六本・八本のいずれかで正方形・六角形・八角形をなした。エディルネ門のミフリマー・スルタン・ジャーミイ(1563–70年)は、四隅の支柱と四つの大アーチで正方形の上にドームを架け、アーチの下の壁を窓で埋めた。スィナン・パシャ・ジャーミイ(1554–55年)は、六つのアーチと二本の独立柱でドームを支える。これはエディルネのユチ・シェレフェリ・モスク(1437–47年)と同じ形式で、スィナンはその先例を研究し、弱点を克服しようとした。六角形はカドゥルガのソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミイ(1571/72年完成)で、矩形の中に六角形を収め、四隅に半ドームを添える形に整えられた。そして八角形の到達点がセリミエである。

セリミエの完成から数年後、九十歳前後のスィナンは、トプハーネのクルチ・アリ・パシャ・ジャーミィ(1578–80年)で、中央ドームの前後に半ドームを置くアヤソフィアの構成にもう一度取り組んでいる。
皇女と宰相たち:繰り返し頼んだ寄進者
14件の寄進者を並べると、仕事の多くが宮廷の小さな輪の中から来ていたことが分かる。スルタンの寄進は5件で、スレイマン1世がシェフザーデ、スレイマニエ、テッキーヤを、セリム2世がセリミエを建てさせ、トプカプ宮殿の再建も宮廷の事業であった。皇女ミフリマー・スルタンが2件、大宰相ソコルル・メフメト・パシャが2件、大提督が2件(スィナン・パシャとクルチ・アリ・パシャ)、クリム・ハンが1件、地元の有力者が2件(カラジョズ・ベグとバニャ・バシの寄進者)である。
寄進者どうしも結ばれている。ミフリマーの夫は大宰相リュステム・パシャで、ベシクタシュのスィナン・パシャ・ジャーミイを寄進した大提督スィナン・パシャはその弟にあたる。ネジポールが作品表から拾った金曜モスク77件を見ると、リュステム・パシャが6件、ミフリマーが2件、スィナン・パシャが1件で、この一家だけで9件を占める。ソコルル・メフメト・パシャの名を冠する金曜モスクも、カドゥルガのほかリュレブルガズ、パヤス、アザプカプにあり、あわせて4件が表に載る。ソコルルの妻イスミハンはセリム2世の娘であり、こちらも皇女を介して帝室と結ばれていた。
なお、スィナン・パシャ・ジャーミイの名の「スィナン」は寄進者の大提督の名で、建築家の名ではない。15世紀にメフメト2世のファーティフ・モスクを建てた建築家も、ミマール・スィナンと区別してアティク・スィナン(古いスィナン)と呼ばれる。
寄進者の生まれが、作品の場所を決めた例もある。ソコルル・メフメト・パシャはヴィシェグラードの近くに生まれ、デヴシルメで徴用されて大宰相にまで上った。スィナンもまた、アナトリアのキリスト教徒の家からデヴシルメで徴用された人であった。キリスト教徒の家から集められた二人が、一方の故郷の川に11連のアーチを架けたことになる。大提督たちのモスクは海辺に建った。スィナン・パシャ・ジャーミイはベシクタシュの船着き場の近くにあり、クルチ・アリ・パシャ・ジャーミィは「提督ならば海の上に建てよ」と言われて海を埋め立てた土地に建てられたと伝わる。
むすび
14件を地図と年表に置くと、スィナンの名がオスマン帝国の版図のほぼ全体に及んでいたことが分かる。ただし、その名の意味は場所によって異なる。都の大作ではスィナン自身の手が、ダマスカスでは彼の図面と在地の職人の手が、ソフィアでは後世の伝承が、同じ「スィナンの作」の中に含まれている。ミナレットの数とドームの径は寄進者の身分をなぞり、仕事の多くは帝室と、皇女を妻とした宰相たちの輪から来ていた。
スィナンの没後、その型は弟子たちが運んだ。モスタルではカラジョズ・ベグ・モスクと同じ1557年に、弟子と伝えられるミマール・ハイルッディンがスタリ・モストの工事を始めている。スィナンの後を継いで主席建築家となったミマール・ダヴド・アガはイェニ・ジャーミィに着手し、セデフカル・メフメト・アーガーのスルタンアフメト・モスクは、師が繰り返さなかったシェフザーデの四方対称の型を、6本のミナレットとともに受け継いだ。各建物の詳細は、下の表から個別のページで確かめられる。










