特集 — FEATURE
電波塔はなぜ高さを競ったか——エッフェル塔から東京スカイツリーまで13の塔 1887–2012
Why Broadcast Towers Raced Upward: Thirteen Towers from the Eiffel Tower to Tokyo Skytree, 1887–2012
名築が収録する公開済みの建物のうち、テレビ・ラジオの送信や無線通信のために建てられ、あるいは使われてきた塔を13件選んだ。1889年のエッフェル塔から2012年の東京スカイツリーまで、10か国にまたがる。このうち6件は、完成した時点で何らかの「世界一」の高さを名のった。
本稿はこの13件を年代順に並べ、見えてくる傾向を読む。「世界一」の物差しそのものが記録のたびに替わったこと、鉄の格子からコンクリートの軸へ移った構造が最後に鉄へ戻ったこと、塔を高くする理由がアンテナの乱立と高層ビルの増加にあったこと、そして塔の頭に人を上げる展望台が電波塔の形と収支を決めたことである。
前史:無線に救われた鉄塔と、エッフェル塔を超えようとした二つの塔
エッフェル塔は、電波塔として生まれたのではない。1889年のパリ万国博覧会のためにギュスターヴ・エッフェルの会社が建てた錬鉄の塔で、万博の20年後にあたる1909年には解体される条件で許可されていた。塔を救ったのは無線電信である。軍事用の電波塔として有用であることが認められて解体を免れ、1909年には南の脚の近くに地下の無線局が設けられた。1910年からはパリ天文台の時刻信号を半径5,000キロの海へ送り、1914年の第一次世界大戦の開戦時には、塔の送信機がパリへ迫るドイツ軍の無線を妨害した。1935年には試験的なテレビ放送も始まる。1957年に頂部へテレビのアンテナが据えられ、その後の付け足しを経て、塔は今の約330メートルに達している。

塔の高さは、まもなく無線の側からも意識されるようになる。内戦下のモスクワでは、レーニンが1919年に強力な無線局の建設を命じ、技師ウラジーミル・シューホフの事務所が設計競技に勝った。当初の案は、エッフェル塔をしのぐ高さ350メートルの双曲面構造の鉄塔であった。物資の不足から高さも鋼材も大きく削られ、塔は1920年から22年にかけて、クレーンも足場も使わずに巻き上げ機だけで組み上げられた。シャボロフカ通りに建つこの塔は、1930年代末からテレビの送信も担う。オスタンキノ・タワーのページが「旧シャーボロフカ塔」と記すのが、この塔である。

同じころ、芸術家ウラジーミル・タトリンがペトログラードに構想した第三インターナショナル記念塔も、約400メートルとエッフェル塔を上回る高さを想定していた。内部で回る立体のうち円柱は情報と宣伝に充てられる計画であったが、塔は模型と図面にとどまった。革命直後のロシアで二度描かれた「エッフェル塔を超える塔」が実際に建つのは、半世紀のちのモスクワである。
「世界一」の物差しは記録のたびに替わる
13件のうち、完成した時点で世界一を名のった6件を順に追うと、記録の更新が同じ物差しの上で起きたのではないことが分かる。
エッフェル塔は、1930年にニューヨークのクライスラービルに抜かれるまで、40年あまり世界一高い建造物であった。1958年に完成した東京タワーはエッフェル塔を超えたが、建造物としての世界一ではない。その座には、1931年完成のエンパイア・ステート・ビルディングがいた。東京タワーを発起した前田久吉は、当初このビルを上回る塔を望んだが、資金と資材が足りずに断念している。名築の建物ページによれば、380メートルの構想も風による揺れを考えて333メートルに収められた。東京タワーが得たのは、エッフェル塔から引き継いだ「自立式の鉄塔として世界一」という肩書きである。
1967年のオスタンキノ・タワーは、初めて500メートルを超えた自立構造物となり、エンパイア・ステート・ビルディングも抜いて自立構造物の世界一となった。ただしこれも、ワイヤーで地面に引き留める支線式の電波塔(マスト)を除いた記録である。アメリカ・ノースダコタ州で1963年に完成したKVLYテレビ塔は628メートルあり、1974年にはポーランドに646メートルのワルシャワ・ラジオ塔が建って、1991年に倒れるまで地上で最も高い構造物であった。電波を遠くへ送ることだけが目的なら、細い鋼のマストをワイヤーで支えるほうが安く高くできる。人の上る塔が世界一を名のるには、「自立式」という限定が欠かせなかった。
CNタワーは、この自立構造物の記録を1975年、建設中のままオスタンキノから奪い、2007年にブルジュ・ハリーファに抜かれるまで30年あまり保った。ブルジュ・ハリーファは床を積み重ねた超高層ビルである。これ以後、塔の記録は、使える床が全体の半分に満たない構造物という定義の「塔」の中で争われることになる。2009年に塔体を完成させた広州塔がCNタワーを抜いて世界一の塔となり、2011年3月には建設中の東京スカイツリーがこれを抜いた。
数字そのものが、構造の限界ではなく判断で決まることもあった。オスタンキノは設計の終盤で高さを505メートルから540メートルに引き上げている。広州塔は約610メートルを計画しながら、航空の安全に配慮してアンテナを短くし、600メートルに収めた。東京スカイツリーは逆に、2009年10月に計画の高さを610メートルから634メートルへ引き上げ、自立式の鉄塔として世界一の高さを確かなものにした。634は、この地域の旧国名「武蔵」にちなむ語呂合わせでもある。
鉄の格子からコンクリートの軸へ、そしてふたたび鉄へ
エッフェル塔と東京タワーは、鋼材を格子に組んだトラスの塔である。東京タワーの構造設計を指導した内藤多仲は、エッフェル塔を超える高さを、その半分ほどの鋼材で実現した。完成当時はエッフェル塔の模倣だとする評もあったが、四方に開く脚の曲線は地震と台風に耐えるための形であり、内藤はそれを「数字のつくった美しさ」と呼んだ。
電波塔の形を大きく変えたのは、1956年に西ドイツで完成したシュトゥットガルトのテレビ塔である。技師フリッツ・レオンハルトが設計したこの塔は、鉄筋コンクリートでつくった世界初の電波塔で、細い軸の上に展望階をもつ「かご」を載せた。名築にはまだ収録していないが、のちに世界各地に建つテレビ塔の原型となった。
オスタンキノは、その影響をはっきり示している。全ソ連の設計競技で勝ったのは、鋼構造を専門とするキーウの設計研究所の案で、エッフェル塔やシャーボロフカ塔に似た透かし格子の鉄塔であった。審査に加わっていた構造技師ニコライ・ニキーチンはこれを好まず、シュトゥットガルトの成功を引いてコンクリートの塔を提案する。ニキーチンは塔身に通した鋼ケーブルで軸を締め上げるプレストレスト・コンクリートの塔を設計し、脚の数はレオンハルトの助言で4本から10本に増やされた。競技に勝った鉄骨案は、のちにキーウのテレビ塔として、オスタンキノより低く縮めたうえで建てられている。
コンクリートの軸は、1960年代から70年代の電波塔の標準となった。東ドイツの指導者ウルブリヒトは、ベルリンに建てるテレビ塔の手本としてシュトゥットガルトの塔と人工衛星スプートニクを挙げ、ベルリンテレビ塔は鉄筋コンクリートの塔身に銀色の球を載せた。CNタワーは、油圧で型枠をせり上げながらコンクリートを打ち続けるスリップフォーム工法で、六角形の核を打ち上げた。この工法は、1965年にナイアガラフォールズで完成した展望塔スカイロン・タワーでも用いられていた。のちのミーラード・タワーも、八角形のコンクリートの軸を同じ工法で立ち上げ、頂に大きな頭部を載せている。
1990年前後には、軸をどこまで細くできるかが問われた。バルセロナのコルセローラ・タワーで、ノーマン・フォスターはアラップと組み、普通の塔なら基部に25メートルの太さを要する高さを、直径4.5メートルの中空のコンクリートの軸と、丘に張ったケーブルで実現した。支線式のマストの原理を、人の上る塔に取り込んだともいえる。電波を妨げないよう、控えのケーブルにはケブラー繊維が使われた。プラハのジシュコフ・テレビ塔は、二重の鋼管にコンクリートを詰めた3本の柱で立つ。
21世紀に世界一を名のった二つの塔は、鋼の格子に戻った。広州塔は、上下で向きをずらした二つの楕円を24本の鋼管で結ぶ双曲面構造で、内側に鉄筋コンクリートの内筒をもつ。構造を担ったのは、ここでもアラップである。英語版Wikipediaは、この形がシューホフが1899年に得た特許に対応すると指摘する。オスタンキノが置き換えたシャーボロフカ塔の原理が、90年近くのちに600メートルの塔で再び現れたことになる。東京スカイツリーは、三角形から円形へ断面を変える鉄骨の格子の中心に、鉄筋コンクリートの心柱を立てた。心柱を塔体と別の周期で揺らして地震の揺れを抑えるしくみで、五重塔に学んだとされる。東京タワーとスカイツリーは、いずれも日建設計の設計である。鉄の格子とコンクリートの軸という二つの系譜が、一本の塔の中で組み合わされたとも読める。


なぜ高くするのか:乱立するアンテナと、電波をさえぎるビル
塔を高くする理由は、記録のほかにもある。13件の建物ページを読み比べると、二つの事情が国と時代を越えて繰り返し現れる。
一つは、放送局ごとに建つアンテナの乱立である。1950年代の東京では、テレビ放送が始まると、放送局ごとに別々の電波塔が建ちつつあった。これを一本にまとめる総合電波塔として計画されたのが東京タワーで、その正式な名は日本電波塔という。英語版Wikipediaによれば、塔の高さは、関東一円へ電波を届けるのに要る距離から割り出された。30年あまりのちのバルセロナでも、1992年のオリンピックを前に放送用の塔が乱立しようとしていた。市は景観への影響を懸念し、テレビ局や電話会社の設備を一本にまとめる共同の塔としてコルセローラ・タワーを建てた。
もう一つは、高層ビルが電波をさえぎることである。1960年代末のトロントでは、都心に超高層ビルが建ち並ぶと、反射によって放送の電波が乱れ、少なくとも300メートルの高さのアンテナが必要になった。当時の通信の多くは、ビルの屋上のパラボラアンテナどうしを結ぶマイクロ波の回線で、新しいビルが建つたびに見通しが失われた。カナダ国有鉄道は、市内のほぼどこからでも見える中継の拠点としてCNタワーを計画している。
同じ事情は、半世紀のちの東京でも起きた。周りに超高層ビルが増えた東京タワーでは、地上デジタル放送の電波を安定して届けにくくなり、より高い東京スカイツリーが建てられた。2012年に完成したスカイツリーへ、テレビ放送の送信は翌2013年に移っている。
マイクロ波の中継という役目を、塔の形そのものにしたのがロンドンのBTタワーである。郵便局が運営した通信塔で、公共建築事業省の主任建築家エリック・ベッドフォードが設計した。円筒形の塔身は、マイクロ波アンテナの安定した架台となるよう、強風でも25センチ以上は揺れないように設計されている。放送の電波を広く送る塔だけでなく、点と点を結ぶ中継の塔もまた、ビルより高い場所を必要とした。
塔の頭に人を上げる:展望台と回転レストラン
シュトゥットガルトの塔は、建設の時点で費用が問題になった。英語版Wikipediaによれば、単純な200メートルのアンテナなら20万マルクで済むところ、塔の建設費は420万マルクに上った。ところが展望台の入場料による収入は、5年のうちにその額に達した。電波塔の頭に人を上げることは、塔の収支を支えるしくみにもなったのである。
13件の多くが、この型を受け継いでいる。オスタンキノ・タワーは高さ337メートルに展望台と回転レストラン「第7天国」を設けたが、その展望台もシュトゥットガルトの設計にならったものであった。ベルリンテレビ塔の球体には、地上約203メートルの展望フロアと約207メートルの回転レストランが収まる。BTタワーでも、1966年から1980年まで回転展望レストランが営業した。CNタワーは地上約340メートルの7層のメイン・ポッドに回転レストランを、約447メートルにスカイポッドを置き、ミーラード・タワーは屋根が地上315メートルに達する12層のポッドを載せる。上海の東方明珠電視塔は、3本の斜めの柱で大小11の球を貫き、そのうち二つの球を展望台とした。東京タワーの収入の柱も、今日ではアンテナの賃貸と観光である。

電波塔の姿は、電波を送らない塔にも広がった。1962年のシアトル万博に建ったスペースニードルは、頂の円盤に回転レストランを収めた展望塔である。1964年のウィーン国際園芸博覧会のために建てられたドナウタワーは、テレビ塔に似た外観をもちながら放送には使われていない。スペースニードルに着想を得たスカイロン・タワーも、頂の球に展望台と回転レストランを載せた。アンカラのアタクレも、通信と展望を兼ねる125メートルの塔に回転展望レストランを備える。電波塔がつくった「軸と頭」の形を、展望塔が借りて広めたとも読める。
国家と都市の看板として
誰が、何に合わせて塔を建てさせたかを並べると、電波塔は放送の施設であると同時に、建てさせた側の看板でもあったことがうかがえる。
オスタンキノ・タワーは、十月革命50周年に合わせて工期が組まれ、1967年11月に開業した。東ドイツ政府がベルリンの中心に建てたテレビ塔は、社会主義国家の威信を示す象徴とされた。晴れた日に球へ差す陽光が十字の反射を生むことから、宗教を抑えた政府への皮肉として「ローマ法王の復讐」と呼ばれた逸話は、看板の意味がたやすく裏返りうることを示している。CNタワーを建てたカナダ国有鉄道には、カナダの産業、とりわけ自社の力を示す狙いもあった。東方明珠電視塔は浦東開発の象徴的な事業として計画され、その口火を切った。東京タワーは戦後復興の象徴となり、テヘランのミーラード・タワーは革命前の都市計画にさかのぼる構想を革命後に実現して、2008年に開業した。
国際的な競技大会も塔を呼んだ。1992年のバルセロナ・オリンピックに合わせてコルセローラ・タワーとモンジュイック通信塔が完成した。サンティアゴ・カラトラバが設計したモンジュイックの塔は、通信事業者テレフォニカの依頼で競技の中継を担う施設として建てられ、その姿は聖火を掲げる走者にもたとえられる。広州塔は、2010年のアジア競技大会に合わせて公開された。
看板の意味が、建設のあいだに変わった塔もある。共産党政権のもとで計画されたジシュコフ・テレビ塔は1985年に着工し、送信を始めたのは体制が倒れたあとの1992年であった。足もとのユダヤ人墓地を一部掘り返して建てられたこともあって、塔は長く嫌われ、評価を変えたのは2000年に芸術家ダヴィト・チェルニーが柱に這わせた赤ん坊の像であった。ベルリンテレビ塔も、再統一ののちは東側の象徴からベルリン全体の象徴へと意味を変えている。
むすび:電波を送らなくなった塔
電波塔としての役目は、塔そのものより先に終わることが多い。シャーボロフカ塔は2002年に放送を終え、腐食が進んで一時は取り壊しも取り沙汰された。シュトゥットガルトの塔は今ではFMラジオだけを送り、デジタルのテレビ放送は近くの別の塔へ移った。東京タワーは2012年に東京スカイツリーへ役割の多くを譲り、FM放送と予備の送信設備を担う。BTタワーも、通信塔としての役割を終えたのちに保存され、新たな活用が計画されている。
一方で、1世紀あまり前に無線に救われたエッフェル塔は、今もラジオとデジタルテレビの電波を送り続けている。そして世界一の塔をめざしてドバイで着工した展望塔ドバイ・クリーク・タワーは、2024年、高さをブルジュ・ハリーファより低く抑える設計変更を発表した。高さを競った電波塔の系譜は、放送の役目を終えても都市の目印として立ち続ける塔の系譜へと、移りつつあるとも読める。












