特集 — FEATURE
構造家は建築に何を残したか——アラップとシュライヒ・ベルガーマンを軸に14の建築 1962–2022
What Structural Engineers Left in Architecture: Fourteen Buildings Around Arup and Schlaich Bergermann Partner, 1962–2022
名築が収録する公開済みの建物1,244件のうち、86件には構造家や技師が設計者とならんで結ばれている。結ばれた件数が最も多いのは英国のアラップの11件で、ドイツのシュライヒ・ベルガーマン・パートナーの7件がこれに続く。本稿は、この二つの事務所と、アラップに属した二人の構造家オヴ・アラップとピーター・ライスが関わった14件を、完成の年の順に読む。
並べてみると、建物の見え方が変わる。構造家の解が建物の形を決めた例、設備と構造を一つの面にまとめた例、外皮がそのまま構造となった例、張力で軽い屋根を架けた例があり、どれも名前がまず建築家とともに語られる建物である。本稿は、構造家の仕事がどこに表れ、その名がどこに記されてきたかを追う。
名築のデータに現れる構造家
名築は、建物と設計者を結ぶときに役割を記録している。公開済みの建物1,244件について数えると、「構造技師」または「技師」の役割で結ばれた関係は105件あり、86件の建物にまたがる。大半は一つの建物に一人か一社の構造家がつく例である。
そのなかで、複数の建物に名を連ねる構造家はかぎられる。最も多いのがアラップで11件、うち8件が構造設計、3件のスタジアムでは設計者そのものとして結ばれている。次がシュライヒ・ベルガーマン・パートナー(sbp)の7件で、7件すべてがスタジアムの屋根である。ほかに、アラップに属したピーター・ライスが2件、創設者オヴ・アラップが1件に個人として結ばれている。
本稿の14件は、これらの構造家が関わった建物から選んだ。第7回の特集で取り上げた広州塔とコルセローラ・タワーも、構造はアラップの仕事であった。
オヴ・アラップと「球面の解」
アラップの創設者オヴ・アラップは、デンマーク系の英国の構造技師で、1946年に技術者の協働体を立ち上げた。名築の経歴は、彼を設計者と技師の緊密な協働を掲げた人物として描く。建築家バジル・スペンスと組んだコヴェントリー大聖堂の新聖堂(1962年)では、壁から切り離した軽快な天井を、細い鋼の脚に収斂する柱で支えた。
アラップの名を世界に知らしめたのは、シドニー・オペラハウスである。1957年の設計競技で選ばれたヨーン・ウツソンの案は、殻の形が幾何学として定まっていなかった。英語版Wikipediaによれば、設計チームは1957年から1963年にかけて、放物線や楕円体を含む少なくとも12通りの形を試し、1961年半ばに、すべての殻を一つの球から切り出すという解にたどり着く。同じ型枠で長さの違う肋を打てるようになり、殻はプレキャストの部材の組み合わせで建てられることになった。

この「球面の解」を誰が思いついたかは、今も定まっていない。当初はウツソンの発案とされ、アラップ自身も委員会への書簡でそう書いた。一方で技師たちは、ロンドンでの議論のなかで生まれたと記憶していた。英語版Wikipediaは、ウツソンとアラップ、担当パートナーのロナルド・ジェンキンスがいずれも大きな役割を果たしたというのが一致した見方だとまとめている。殻の構造解析は、計算機を構造解析に使ったごく初期の例でもあった。
ピーター・ライスと手で触れる構造
殻の幾何学を担ったのが、若いピーター・ライスであった。アイルランド出身のライスは1956年にアラップに入り、最初の仕事がオペラハウスの屋根であった。英語版Wikipediaによれば、ロンドンで3年にわたって殻の幾何学に取り組んだのちシドニーの現場に移り、上司が病に倒れたため28歳で現場の責任を負った。殻の部材を正しい位置に据えるための計算機のプログラムも書いている。
ライスの名を決定づけたのは、レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースが1971年の設計競技に勝ったポンピドゥー・センターである。外壁の梁を支える腕木「ガーバレット」はライスのチームが考案したもので、ライスはこれを鋳鋼でつくるよう指定した。鋳物の腕木が細い鋼管と釣り合って建物の重さを受け、構造と設備を外にさらすこの建物で、最も目に近い位置に表れる部材となった。英語版Wikipediaは、ライスがこの建物に人間らしさ、手触り、尺度という考えを持ち込んだと書く。
ピアノとライスの協働は、関西国際空港の第1旅客ターミナルで頂点に達する。出発ロビーを覆う非対称に湾曲した大屋根は、ライスと設備技師トム・バーカーが、構造と空調の要請を同時に満たす曲面として導いた。ダクトから吹き出した空気が湾曲した天井に沿って流れ、トラスのあいだに張られた帆のような膜がその流れを導く。構造の形が、空気の流れの形でもある。ライスは1992年に57歳で没し、1994年の開港を見なかった。
ライスはポンピドゥーのあと、1977年に自身の事務所RFRを興しながら、アラップのパートナーでもあり続けた。英語版Wikipediaは、ロジャースのロイズ・ビルディング(1986年)でも彼が構造技師を務めたと書く。I・M・ペイのルーヴル・ピラミッドでは、施工段階の構造をライスらの事務所RFRが担った。
外皮がそのまま構造になる
21世紀のアラップの仕事には、建物の外皮と構造が一つになった例が目立つ。
30セント・メリー・アクス(2003年)は、外周をダイアグリッドと呼ぶ鋼の三角格子で支える。英語版Wikipediaによれば、アラップの設計による三角形で組み尽くされた外周の構造は、それだけで塔に十分な剛性を与え、揺れを抑えるための追加の補強を要さなかった。内部に通し柱のない床が生まれ、各階を少しずつ回転させた吹き抜けが自然換気の煙突として働く。
北京国家体育場(2008年)の「鳥の巣」は、構造家の仕事が偶然から造形になった例である。英語版Wikipediaによれば、設計競技は開閉式屋根を条件としていた。その支えを隠すために、不規則に見える鋼材を加えたのが網目の始まりであった。のちに開閉式屋根は取りやめられたが、支えを隠すための鋼の網はそのまま残り、ファサード・階段・屋根・構造を一体にした外殻として建物の顔になった。


2022年のワールドカップ決勝の会場ルサイル・アイコニック・スタジアムでも、アラップはフォスター・アンド・パートナーズの共同事業者として構造と設備を担った。黄金色の外皮に連なる三角形の開口は、構造のダイアグリッドを見せると同時に日射をやわらげる。広州塔の24本の鋼管も、同じ系譜に置くことができる。
張る構造:ミュンヘンからシュライヒ・ベルガーマンへ
構造家が建物の形そのものを決める度合いが最も大きいのは、張力で屋根を架ける競技場である。
その出発点にあるのが、1972年のミュンヘン・オリンピアシュタディオンである。ベーニッシュ&パートナーの設計案に、フライ・オットーの膜構造の思想を取り込み、マストから張ったケーブル網にアクリルガラスの板を吊って、地形に沿って波打つ屋根を架けた。英語版Wikipediaによれば、オットーが大きな模型で形を探る一方、技師フリッツ・レオンハルトとヴォルフ・アンドレーの事務所が計算機で屋根を詰め、スタジアムの屋根は土木技師ヨルク・シュライヒの指揮で1972年4月に完成した。

シュライヒは、同じ事務所にいたルドルフ・ベルガーマンとともに、1980年にシュライヒ・ベルガーマン・パートナーを興した。レオンハルトは、第7回で取り上げたシュトゥットガルトのテレビ塔の設計者でもある。英語版Wikipediaによれば、シュライヒは1993年のシュトゥットガルトの競技場の屋根で、自転車の車輪を横倒しにした「スポークホイール」の原理を用い、以後この方式を世界各地のスタジアムに展開した。
名築が結ぶsbpの7件は、その展開の跡である。ハンブルクのフォルクスパルクシュタディオン(2000年)では、スタンドの背後に立つ40本の鋼製マストが外周の圧縮リングを支え、ピッチ上空の引張リングとの間を上下2段の放射状ケーブルが結ぶ。柱をすべて客席の外に出したことで、どの席からもピッチが遮られずに見える。セビリアのエスタディオ・デ・ラ・カルトゥーハ(1999年)では、扇にたとえられる大屋根を片持ちで張り出した。ダーバンのモーゼス・マヒダ・スタジアム(2009年)は、競技場をまたぐ高さ約105メートル・スパン約340メートルの鋼のアーチから膜の屋根を吊る。ワルシャワのワルシャワ国立競技場(2011年)は、中央のマストの「巣」から開閉式の膜屋根を放射状に展開し、ブラジリアのエスタジオ・ナシオナル・デ・ブラジリア(2013年)は、288本の白い柱が円環状の吊り屋根を支える。
既存の競技場の屋根を架け替えた例もある。バンクーバーのBCプレイスは、1983年の空気膜の屋根を2011年にスポークホイール構造の開閉式屋根へ改め、完成時にはケーブルで支える開閉式屋根として世界最大であった。アラップも、2000年のシドニー五輪の主会場スタジアム・オーストラリア(1999年)で、二本の大きなアーチ状トラスから屋根を吊って鋼材の量を抑えている。
構造家の名はどこに記されるか
建物の名は、たいてい建築家とともに語られる。それでも構造家の名が建物そのものに残った例がある。エッフェル塔は、ギュスターヴ・エッフェルの会社で働く技師モーリス・ケクランとエミール・ヌーギエが1884年に考案し、社の建築家ステファン・ソーヴェストルが意匠を整えた塔である。特許を買い取って事業の全責任を負った技師エッフェルの名が、塔の名になった。
名誉の面では、英国王立建築家協会のロイヤル・ゴールド・メダルが分かりやすい。英語版Wikipediaによれば、建築家に贈られるこの賞を技師として初めて受けたのはオヴ・アラップ(1966年)で、2人目がピーター・ライス(1992年)であった。
名築のデータでも、構造家の比重は建物によって大きく異なる。ウィリス・タワーでは構造技師ファズラー・カーンの束ねたチューブ構造が段状の輪郭を決め、ブルジュ・ハリーファではウィリアム・ベイカーが立案したバットレス・コアがY字形の平面を決めた。ミヨー橋では構造の基本構想を技師ミシェル・ヴィルロジューが、意匠をノーマン・フォスターが担った。こうした建物では、建物ページの「建築的特徴」の多くが、実際には構造家の仕事の説明になっている。
むすび
14件を構造家の側から読み直すと、建物の見せ場の多くが構造の解であったことが分かる。シドニーの殻、ポンピドゥーの腕木、関西の大屋根、ロンドンの三角格子、北京の網目、各地の競技場の張力の屋根は、建築家の構想と構造家の計算がどこで出会ったかを、それぞれのかたちで示している。
本稿の公開後、名築はロイズ・ビルディングにライスを、sbpが2004年に屋根を架けたベルリン・オリンピアシュタディオンにsbpを結んだ。それでも、構造家の名が結ばれていない建物はまだ多い。構造家の名を建物に結んでいくことは、名築にとっても、建物の見え方を広げる作業になるとも読める。













